山里の記憶23


ずりあげうどん:小河つねさん



2008. 3. 16



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 炭焼きの取材で伺った栃本の小河さんの家で、取材が長引き、昼食時になってしまった
。この時につねさん(82歳)が「ずりあげを作るから食べていきない」と声をかけてく
れたので、ごちそうになることにした。ずりあげうどんとは秩父の郷土食で、うどんを茹
でながら鍋から取り、それに醤油や薬味をかけて食べるもの。手早くできてお腹一杯にな
る、今話題の小昼飯(こじゅうはん)の一つとしても昔から愛されていた食事だ。炭焼き
の取材は急遽「ずりあげうどん」の取材に変更されることになった。         

民宿「ふるさと」は、まるで斜面の一部のように建っていた。 玄関前には広く風通しの良いテラスがあった。

 煮ている鍋からずりあげるので「ずりあげうどん」、分かりやすいそのままのネーミン
グだ。同じように、引きずるから「ひきずりうどん」とも言う。じつに分かりやすい。山
形などではさらに「ひっぱりうどん」「だらくうどん」などとも呼ばれている。基本的に
鍋を囲んで大勢でワイワイ言いながら食べる簡単料理というところだろうか。確かに、一
人前だけ作って一人で食べてもそれほど美味しいとも思えない。みんなとワイワイ話しな
がら食べるのが良いところであり、美味しさなのだと思う。形態的には釜揚げうどんに似
ているが、釜揚げうどんだと、釜から一度上げて食べるのだが、このずりあげうどんは、
うどんを茹でている鍋から直接取るところに特色がある。              

 薬味の基本は刻みネギとカツオブシ。道の駅で出しているずりあげうどんの薬味は生卵
、カツオブシ、刻みネギ、七味、すりごま、ごま油に醤油を加える豪華版。秩父では各家
庭でずりあげうどんの薬味や食べ方が微妙に変わる。好きなものを加えて食べれば良いと
いうフレキシブルさも良い。他に薬味として使われているものは、マヨネーズ、大根おろ
し、みょうが、青じそ、ゆず、納豆、なめこおろし、わさび等々・・・ここまで来るとか
なり多彩になる。さらに山形ではサバの水煮なども加わる。             

 うどんは乾麺にとどめを刺す。生麺や手打ちうどんでずりあげはしない。生麺や手打ち
うどんは、きちんと汁を作って汁で食べる。ずりあげは乾麺を茹でながら、茹で汁に浸か
ったものをずりあげるのが良い。その昔、山仕事をしている人が山でうどんを食べるため
に乾麺を持って行ったのが始まりだとも言われている。               
 何年か前に入川源流の柳小屋まで釣りに行った事があった。その時、同行した友人が朝
の食事に納豆で食べるずりあげうどんを作ってくれた事があった。焚き火の前でふうふう
言いながら食べたうどんの旨かったこと。あの場所で、あの食べ方、あれがずりあげうど
んの原点だったのかもしれない。                         

 台所からうどんの入った鍋が運ばれて、ストーブの上に置かれた。「ずりあげは簡単に
出来ていいやいねえ・・」と友義さんがてきぱきと動き、準備が終わった。準備といって
も青ネギを刻む事と、パックのカツオブシを出すことだけだから簡単だ。大きなお椀にネ
ギとカツオブシをざっと入れ、醤油をかける。その上に茹で上がったうどんを鍋からずり
上げて入れる。箸でグルグルかき混ぜて口に運ぶ。口いっぱいに温かいうどんが溢れ、醤
油とネギとカツオブシの香りと味が広がる。久しぶりに食べる懐かしい味だった。   

 昔、寒い晩に囲炉裏の鉄鍋からうどんをずり上げて食べた事を思い出す。茹で汁の何と
も言えない香りと湯気も思い出す。あの頃は毎晩のようにずりあげうどんが夕食だった。
乾麺は農協から段ボールの箱で買ってあった。普通の乾麺と「ひもかわ」という平たい乾
麺もあった。いつでも、いくらでも食べられるのが育ち盛りにはありがたかった。ネギや
紫蘇は畑にいくらでもあったし、時に贅沢な気分を味わいたいときは、胡麻をホウロクで
煎って、すり鉢で摺って薬味にした。体も温まるし、お腹一杯になるまで食べられるのが
幸せだった。                                  

暖かいストーブで煮ながら食べるずりあげうどん。 笑いながら色々な話をしてくれたつねさん。

 うどんを食べながらつねさんに色々話を聞いた。つねさんは18歳の時に友義さんのと
ころに嫁に来た。同じ村の出身だったのでそれほどの違和感は感じなかったという。しか
し、4月に結婚して、その8ヶ月後の12月に友義さんに徴兵の通知が来た。友義さんは
中国大陸へと出征し、新婚生活はあっという間に終わった。つねさんにその時の気持ちを
聞いてみた。                                  
「仕方がなかったいやねえ・・それよりおばあさんの世話が大変で忙しかったんさあ」 
おばあさんはリューマチで寝たきりだった。おばあさんの世話も大変だったし、友義さん
の弟や妹の世話もつねさんの仕事だった。忙しくて目が回るようだった。淡々と語るつね
さんだったが、本当のところ目の前が暗くなるような思いをしていたのだと思う。   

 3年後、友義さんが無事に大陸から帰ってきた。二人で山に入り、炭焼きをする日々が
始まった。つねさんは焼いた炭を炭俵に詰める作業を担当した。炭焼きをしながら野菜を
育て、食事を作るのもつねさんの仕事だった。いろいろな料理を作ったが、中でもいんげ
んの油味噌はつねさんの得意料理だった。その頃もずりあげうどんは度々食べていた。山
仕事で忙しいときは時間がなかったので、重宝する食事だった。           

 山の中で子どもも育てた。ある時、肺炎になった息子さんを医者に診せなければならな
くなり、落合の診療所から医者を呼んだことがある。友義さんが呼びに行き、ワサビ沢の
小屋まで医者を連れてくるのが大変だった。お医者さんはおじいさんで、足腰が弱かった
。友義さんが、先が二股になった腰を押す棒で後ろから押して、山のジグザグ道を登って
きた。この時、道の先が見えなくて、曲がらなければいけないところを、真っ直ぐに藪の
中へお医者さんを押し込んでしまい、たいそう怒られたそうだ。その時のことを思い出し
ながら友義さんが笑いながら言う。                        
「武藤医者にゃあ、悪い事をしたいなあ。えら怒られたったいなあ・・あっはっは」  
肺炎の息子さんは手当のかいあって、無事に治ったそうだ。その息子さんがずりあげうど
んが好きだったので、よく作って食べていたという。                
 山の暮らしは大変だったが、つねさんは懐かしそうに話す。            
「考えてみると面白いことばかりだったいねえ、つらい思いはなかった。楽しいことばっ
かりだったいねえ・・・」                            
楽しかった山の暮らしも、炭が売れなくなって終わってしまった。そして、昭和45年か
ら民宿の免許を取って栃本で民宿「ふるさと」を始め、新しい生活がスタートした。  

 当時の秩父は民宿の開業ブームで、多くの民宿が出来ていた。観光客も多くて、予約が
無くとも飛び込みの宿泊客で埋まることが多かった。本当はいけないのだが、一人の客は
断って、3人とか4人連れの客を選ぶようなこともあった。そのくらい沢山の利用客があ
ったということだ。つねさんの料理も民宿の売り物だった。山菜や季節の野菜の天ぷら、
イワタケ料理などが評判良かった。イワタケ料理の勉強に、群馬県の上野村に食べに行っ
たこともあった。ところがイワタケはほんのわずかで中身はキュウリばかりだった。  
「カレーライスは作らなかったけど、いろんなもんを作ったいねえ」とつねさんは笑う。

水を流しながら栃の実のあく抜きをしている。 帰り道の秩父湖。花粉と黄砂で霞がかかっていた。

 栃の実を採って、トチ餅を作るのもつねさんの仕事だった。アク抜きに手間がかかるト
チ餅作りは大変だった。今は息子さんがトチ餅を作る担当になっている。この日も庭の水
道にはバケツに入ったトチの実を流しっぱなしの水でアク抜きしている最中だった。ほん
のり苦味の残るトチ餅は、まさに大滝の味で、お土産にも喜ばれた。         
「このごろは鹿がトチの実を喰っちまうもんで実を拾うのも大変になったいねえ・・」 
トチ餅作りは年々難しくなってきている。                     
 つねさんのトチ餅作りは寄居の「川の博物館」でも紹介されたという。学芸員が取材に
来て、沢山写真を撮って行って、その一部が博物館で展示されたという。       

 当時のお金で一泊980円。今は一泊で6000円だが、昔の980円の方が価値があ
るような気がするとつねさんは言う。民宿をやりながら娘三人と息子二人の五人の子ども
を育て上げた。20年間一度も食中毒などは出さなかったことが自慢だ。免許は来年まで
あるが、その先どうするかは思案中のようだ。二人とも80歳を超えて、先のことを考え
るのがおっくうになっているという。                       
 「いっぱい食べてってくんないねえ」「そうそう、残してもしょうがないかんねえ」 
ストーブの熱気と温かいうどんで額に汗が出てきた。二人の温かいもてなしに満腹になり
ながら、充実した取材を終えた。