山里の記憶232


蕎麦まんじゅう:福島ゆり子さん



2019. 2. 15


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 二月十五日、蕎麦まんじゅうの取材に小鹿野町・河原沢の橋詰耕地に行った。取材した
のは福島ゆり子さん(七十歳)で、自宅に伺って蕎麦まんじゅう作りを取材させていただ
いた。庭に赤い南天が実る家は日当たりも良く暖かそうだった。ゆり子さんは「日が陰る
と寒くなるよ」と笑う。昔は養蚕をやっていたという二階建ての大きな家は百五十年くら
い経っているのではないかとご主人の寿夫(ひさお)さん(七十三歳)が言う。八年前に
改築したという家の内部はとてもきれいで整理整頓されていた。           

 小豆餡は昨夜作ったもので、自分の畑で作った小豆を使っている。味付けは中白砂糖と
塩。小豆をせじて(煮詰めて)つぶした粒餡だ。出来上がった餡をゴルフボール大に丸く
してタッパーに並べて餡の準備が始まる。慣れた手さばきは迷うことない。タッパーには
餡子玉がどんどん並んでいく。ゆり子さんの作業が速い。              
 ゆり子さんの蕎麦まんじゅうは蕎麦粉とうどん粉が一対二の割合で生地をこねる。生地
は熱湯でこねる。大きなやかんの熱湯を注ぎながらこねるのだが熱くはないという。生地
は柔らかくこねたほうが食感が良くなる。生地をこねる作業もじつに手早い。     
 生地を耳たぶくらいの柔らかさにこね、ちぎって手の平で平らに伸ばし、餡をくるんで
丸める。見ているうちにどんどんまんじゅうが出来上がってゆく。普通に話しながら手が
迷うことなくまんじゅうを作る。いつもやってるから特別な事ではないのかもしれない。
出来上がったまんじゅうは粉をふってトレイにくっつかないように並べられた。    

赤い南天の実が耀く日当たりの良いゆり子さんの家。 大きな鍋にくっつかないようにまんじゅうを入れて茹でる。

 大きな鍋に湯を沸かし、沸騰したらまんじゅうを入れる。ゆり子さんの蕎麦まんじゅう
は茹でまんじゅうだった。まんじゅうは重ならないようくっつかないよう木じゃくしを使
って静かに鍋に入れる。茹でまんじゅうは初めてだったので興味深く様子を見る。   
 最初は底にくっつく感じだったまんじゅうが何分か茹でると浮くような感じになる。く
っつかないように木じゃくしで静かにかき回しているとその感じが変わるという。「浮く
って言ってもプカプカ浮く訳じゃないんだぃね…」という言葉が何となくわかる。ゆり子
さんが「こんな感じになったらそろそろだぃね」と教えてくれたので、木じゃくしで動か
してみた。確かに最初の重さはなく軽く触っただけで浮き上がる感じになっている。  

 茹で上がったまんじゅうを水のうでショウギに上げ湯を切り、うちわで扇いで冷ます。
少し扇いでそのままショウギに置いて冷ましておき、鍋には次の饅頭を投入しているゆり
子さん。同じ作業で茹でまんじゅう作りが続いていく。出来上がった蕎麦まんじゅうを二
つの皿に二つずつ盛ってゆり子さんが運ぶ。「最初に出来たもんは、神様と仏様に進ぜる
んだぃね…」とのこと。立派な神棚と仏壇に蕎麦まんじゅうが供えられた。      
 ショウギに置いて冷めたまんじゅうを二つオーブンで焼き色が付くまで焼いて出来上が
りになる。「焼き色がつくと旨そうだぃね…」と寿夫さんも言う。お皿に乗せて炬燵に運
び「食べてみないかぃ」と呼ばれた。ゆり子さんは自分で作ったキャラブキと白菜漬けも
皿に盛って一緒に勧めてくれた。                         
 さっそく頂いたのだが、食べ応えのあるまんじゅうで、噛んでいると蕎麦の香りが立っ
てくる。控えめな甘さの粒餡も相性がいい。「昔は石臼で蕎麦を挽いて粗いところをまん
じゅうにしたんだぃね、だから香りが良かったんだぃ」と寿夫さんも昔を懐かしむ。昔の
蕎麦まんじゅうを味わう事は出来ないが、その話には納得した。きゃらぶきと白菜は蕎麦
まんじゅうと一緒に食べるとじつに旨いお茶請けだった。              

鮮やかな手さばきで蕎麦まんじゅうをあっという間に作ったゆり子さん。 食べ応えのある蕎麦まんじゅうで、お茶請けとの相性も抜群。

 お茶を飲み、蕎麦まんじゅうを食べながらお二人に昔の話を聞いた。家の前には川が流
れていて立派な橋がかかっているが、これは四十年前に架けられた橋で、その前は木の小
さい橋しかなかった。大きな台風の時など橋が流されて学校に行くこともできなかったと
寿夫さんが言う。小学校は三田川第三小学校。今は氷柱でにぎやかな龍頭神社のあるとこ
ろだ。中学校は間明平(まみょうだいら)中学校で、自転車で通った。        
 家の仕事は農業だったが出荷するためというより、自分達で食べるものを作ることが主
だった。サツマイモ・大麦・小麦・こんにゃくなどを作っていた。養蚕は年に三回、春蚕
・夏蚕・秋蚕をやった。河原沢は寒いので晩秋蚕はやらなかった。          

 寿夫さんは学校を出てから山仕事をやっていた。県造林の仕事で下刈りや枝打ち、苗の
植え付けが主な仕事だった。半平(はんだいら)から八丁峠の下の山などを造林した。八
丁峠はとても寒く厳しいところで、寒さでヒノキが枯れて駄目になってしまい、何度もや
り直したのが忘れられないという。                        
 ゆり子さんは三山の石上(いしがみ)で生まれた。農家で育ち学校に通い、卒業して家
の手伝いをしている時に寿夫さんと知り合った。寿夫さんによると、バイクで走っている
時に見かけて声をかけたのだという。付き合いだして交際しているうちに寿夫さんに惹か
れたゆり子さん。二人は昭和四十四年結婚した。ゆり子さん二十歳、寿夫さん二十三歳の
時の事だった。今年で結婚五十年になり金婚式を迎えることになった。        

 ゆり子さんがこの家に嫁入りした時、家にはおじいさん、おばあさん、舅さん、姑さん
の二夫婦と寿夫さんの弟がいた。弟はまだ小学六年生だった。七人家族の嫁御は忙しかっ
たが、おばあさんや姑さんが穏やかな人で楽しかったというゆり子さん。       
「あたしは何も知らなかったから、何でも聞いてやったんだぃね…」おばあさんがお勝手
をやっていて、その手伝いをする日々だったという。いさかいなどなく、人を大事にする
家だった。「おばあさんが何でもやってくれるんで、あたしはやるせゃあなかったんだぃ
ね…」「おばあさんがやるのずっと見てたから、自分でやるようになった時にも上手く出
来たんだと思うんだぃね…」と謙遜する。                     

 昔は囲炉裏があって何でも囲炉裏の回りでやっていた。寿夫さんがまんじゅうを囲炉裏
の灰で焼いて食べた話をしてくれた。もろこしまんじゅうのまずかった事なども笑い話だ
が、ゆり子さんは「もろこしのお粥を食べた事がなかったんだぃね、一度味わってみたか
ったもんだけど…」と言うので寿夫さんと私が「あれは旨いもんじゃなかったから、食わ
なくて良かったと思うよ」と笑った。                       
 寿夫さんは結婚を機に仕事を変えた。一時はマイクロバスの運転手をしていたが、横瀬
の秩父自動車学校の教官の仕事に就いた。長い間河原沢から横瀬に通った。「まあ、定年
まで出来たんで良かったぃね」と昔をふり返る。                  
 子供は四人で孫が七人いる。大きい孫はもう二十四歳になる。盆・正月にはみんなが集
まって忙しいが楽しい時間だという。「お年玉が大変なんだぃ、一万円とか五千円とかね
数が多いし…盆と正月はじいちゃん頑張るんだぃ…」と寿夫さんが笑う。       

 夫婦二人の生活になってゆり子さんは少し考え方が変わってきた。自分の手でいろいろ
作るようになって「昔のように手をかけて作りたぃんだぃね…」と言う。今時のおしゃれ
な料理は作れないが、昔ながらのものを作りたいという。毎年作っている吊し柿など誰も
食べたがらなかったのだが、最近長女が「食べたくなってきた」と言うので、そういう歳
になったんかさあって笑ったという。                       
 この集落でゆり子さんだけが作っていた柿の皮を漬け込む沢庵漬けは絶品だった。吊し
柿作りで出た柿の皮を大量に使い、二十日干した大根を塩とトウガラシで漬け込むものだ
が、寿夫さんも「あれは旨かった…」という。しかし、昨年は作らなかった。畑から大根
を運ぶ事がきつくなってしまったからだ。仕方ない事だが貴重な味が消えてしまった。 

炬燵でお茶を飲みながら昔の話をしてくれた寿夫さん。 五月の草もち作りの写真がいっぱいアルバムになっていた。

 子供たちは外で自立している。ここに帰って来ても仕事がない。仕方のないことだと言
う寿夫さんの声は少し寂しそうだ。しかし、毎年五月に子や孫が集まって盛大に草もち作
りをするのが恒例になっている。山の緑がきれいな季節の楽しみだ。みんなでワイワイ言
いながら臼と杵を使って餅をつく。大量の焼きお握りなどを作るのも楽しい。子供や孫が
喜んでくれるのが楽しいのだと言う。餅つきの写真をいっぱい見せてもらった。楽しく明
るい家族の写真がいっぱいアルバムになっていた。                 

 国民宿舎で働きながら夫を助け、昔ながらの料理を作ることを楽しみに生きるゆり子さ
ん。明るく前向きな姿勢と作業の手早さがハキハキした印象を残し爽やかだった。   
 出来たての蕎麦まんじゅうとたくさんの料理をお土産に頂き、日が陰って寒くなった河
原沢から帰路についた。忙しかったかったけれど充実した取材だった。