山里の記憶236


九十八歳の道のり:若林金一さん



2019. 7. 18


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 七月十八日、秩父市の吉田久長(よしだひさなが)にある白砂惠慈園で若林金一(きん
いち)さん(九十八歳)を取材した。大正十年生まれの金一さん。大正・昭和・平成・令
和を生きて来た貴重な話は幅広く、多岐に渡った。金一さんの年齢を感じさせない確かな
記憶と軽妙な語りで、とても有意義で楽しい取材になった。             

 大正十年、吉田町宮戸に生まれた金一さん。十二歳で上吉田小学校を卒業し、十四歳で
高等科二年を卒業した。川崎に嫁に行った姉さんの家に泊まっていたら、洋服屋にでも奉
公に行かないかという話が出て、そのまま知り合いの鈴木洋服店に奉公が決まった。  
 鈴木洋服店は川崎駅から二百メートルくらいの繁華街にあり、住み込みの奉公人にとっ
ては楽しいだ場所だった。駅前に小宮デバートがあり、裏には佐藤病院があった。隣は福
柳という芸者屋だった。市内には他に二軒の洋服店があり、競合していた。      
 仕事は男物の洋服を担当した。店には婦人部もあり、たまに婦人服を作ったりしたが男
物担当が作ると固い印象になると言われた。女物の服はきっちり作るのではなく簡単に作
った方が合うようだった。住み込みの奉公人は男が三人、女が二人いた。奉公人だから給
料はなく小遣いだけもらえた。日新堂という菓子屋があって、そこで買い食いをするのが
楽しみだった。奉公しながら川崎市の青年学校の夜間教室に通っていた。       

 昭和十七年、二十一歳の時に苛烈になって来た太平洋戦争に巻き込まれる。徴用軍事工
場に検査工として入社する事になった。そして、翌年三月召集令状が来て、東部十二部隊
に入営することになった。金一さんは覚えたての洋服作りの技術を生かし、自分で作った
洋服を着て入隊した。                              
 入隊後二ヶ月間、大蔵病院で衛生兵の教育を受けた。五月上旬に博多から釜山行きの輸
送船に乗った。途中に敵の潜水艦がいるという情報もあり、全員が竹の節をつないだ救命
具を装着しての心細い旅だった。予定より二時間遅れて釜山に着き、ホッとしたのもつか
の間、今度は長い長い貨車の旅となる。貨車は寝わらが敷いてあるだけの粗末さ。食料は
高粱(こうりゃん)のおにぎり、武器は車両一つに銃が一丁という心細さ。満州を過ぎ、
支那に入る。夜間に二度の銃撃を受けたが幸い無事に新郷(しんごう)に着いた。   
 金一さんは支那派遣軍第百七十三兵站病院に衛生兵として勤務した。負傷兵や傷病兵の
手当て・入院・消毒などで衛生兵は忙しかった。新郷に着いてからは食事も良くなった。

洋服作りを学んだ川崎の鈴木洋服店。人生の原点になった。 衛生兵として出征。北支での従軍は過酷だった。

 昭和二十年八月、金一さんは北支・新郷で終戦を迎えた。敗戦の報に部隊は大混乱を起
こした。前途に絶望して自決する人も多かった。金一さんは傷病兵の世話で忙しかった。
 終戦後、金一さんは縫工(ほうこう)として働いた。洋服作りの技術を生かした仕事で
中国人からの注文を受けたり、中国人の若い人たちに技術を教えたりした。ずいぶんと信
頼され、中国に残ってくれと言われたが、日本に帰りたいという気持ちは変わらなかった
という。服作りを手伝ってくれた中国の娘さんにミシンをあげたらとても喜ばれた。  
 翌二十一年の四月、貨車で傷病兵を上海に輸送するのに同行した。徐州・蘇州を通り、
上海までの道のりは実に長く心細いものだった。軍属や看護婦の女性は坊主頭にして男物
の服を着てそれとわからないようにした。途中で貨車が止まると付近の農民が襲って来て
貨車の中の物を略奪した。傷病兵を守り、上海に着いた時は心底ホッとしたという。  

 上海では元日本の女学校だった場所に部隊は落ち着いた。そこで金一さんに思いがけな
い話が舞い込んだ。上海司令長官の陳中将に自宅で服を縫ってくれと頼まれたのだ。陳中
将は日本の陸軍士官学校を出ていて奥様は日本人だった。引き揚げ船が出るまでの間とい
う条件だった。この時のことを金一さんは本当に楽しかったと語ってくれた。     
 洋服やドレスなど様々な服を作ったという。娘の陳和子さんと一緒に少尉の軍服を着て
ガーデンブリッジに遊びに行った事もあった。七月始めに部隊長あてのお土産を持って部
隊に帰ってきたのだが、あの何日間は本当に楽しかったと目を細めていた。      

 昭和二十一年八月、上海から和歌山の田辺港に到着。やっと日本に帰って来られた。傷
病兵を病院に入院させ、部隊は解散した。金一さんは京都に出て、東海道線で上野に向か
った。川崎の鈴木洋服店にしばらく滞在した後、八月十二日に生まれ故郷の吉田に復員で
きた。長い長い金一さんの戦争が終わった。しかし、戦地赴任が三年に少し足りないため
軍人恩給がもらえないのが悔しい。金一さん二十五歳の夏だった。九死に一生を得た復員
だったが、金一さんはつらかった事は語らず、楽しかった事だけを語ってくれた。   

 しばらく吉田で過ごした後、金一さんは再び川崎の鈴木洋服店に向かった。戦後の混乱
期で洋服の仕事はたくさんあった。特に川崎は工場が多く、働く人たちの洋服需要が多か
った。洋服といっても新しい生地はなく、和服を洋服に作り直したりという仕事だった。
 鈴木洋服店が新しい店を出すのをきっかけに金一さんも独立した。姉さんが嫁に行って
いた家の近くに小さな家を借り、そこを店にした。店といっても洋服を作って売る訳では
なく、直し専門の洋服店だった。鈴木洋服店でもらったミシンが大活躍した。     

秩父宮家に菊花を献上しての記念写真。金一さんは右端。 秩父宮家から拝領した金盃を手にした金一さん。

 この頃から金一さんは生涯の趣味ともなった菊花作りを始めた。家の前に菊の花を並べ
て置いたところ意外な人の目に止まった。大蔵病院の近くに秩父宮家があり、妃殿下が散
歩の途中で金一さんの菊に目を止められた。秩父出身という事もあり、不思議な縁の会話
が始まった。金一さんは何度も秩父宮家に伺い写真を撮ったり、妃殿下の洋服を作ったり
という交流に発展していった。すごい事なのだが、金一さんはまるで普通の事のように笑
いながら「せっちゃんの服を作って喜ばれてさあ・・」などと話すのでびっくりしてしま
った。宮家から頂いたという金盃を持って満面の笑みを浮かべる金一さんを撮った。  

 故郷吉田に戻った金一さんに結婚の話が持ち上がった。お相手は同級生の高岸マツさん
で二十八歳という晩婚だった。マツさんは女部田(おなぶた)の出身で、子供の頃から頭
の良い人だった。結婚した時は教師をしていた。                  
 「俺は頭の方はダメだったけど洋服の仕事をやってたんで一緒になれたんだぃね・・」
と金一さんは当時を振り返る。同級生からもこの二人が一緒になるとは誰も思わなかった
と言われた。「だから、売れ残り結婚だって言われたんさぁ・・」と笑う。しかし、マツ
さんは二度も親の勧める見合いを断っていた。断った訳は「相手がお大尽だから嫌だ」と
いうものだった。マツさんの生き方に対する信念が伺える言葉だ。金一さんはマツさんの
信念によって選ばれた人だった。                         

 吉田での二人の生活が始まった。何もなかった。「祝言もなかったんだぃ・・」マツさ
んの親戚の物置を改造して洋服手直しの店を開業した。まだ洋服店などない時代だった。
ミシンが活躍し、直しの仕事は順調に増えていった。ほころびや虫食いの直し、ネズミに
食われた尻の穴をミシンで縫い直す仕事などなど、男物も女物もやった。       
 石間(いさま)のマンガン鉱山の鉱員の小屋を解体して組み立て直した家を作った。戦
後の物資がない時代だった。藁を敷いて寝る事もあったという。何もかも二人でやるしか
なかった。大変だったけれど楽しい新婚時代だった。                

 しかし結婚二年後三十歳の時に大きな試練が襲いかかる。金一さんは肺結核で結核研究
所に入院する。気胸の治療が一年かかった。一年後に退院はしたが、結核は不治の病と言
われていた時代の事、長い長い闘病生活の始まりだった。金一さんは秩父の三上病院や小
川の日赤病院に通院する生活がずっと続くことになった。              
 洋服屋として服を作る仕事をしながら闘病は続いていた。昭和六十二年、金一さん六十
六歳の時に大手術をした。結核研究所に入院して十二時間の大手術だった。その一ヶ月後
再び十二時間の大手術をして片肺を切除した。退院したのは六ヶ月後だった。     

何もないところから始まり、二人の子供を育て上げた家。 ひ孫の誕生を祝う金一さんとマツさん。

 金一さんの歌集「共に老いゆく」から、その後の心境を詠んだ歌三首。       
 「 連れ添いて 苦労をかけし五十年 助け合いつつ 共に老いゆく 」      
 「 病む我の 介護と家事に明け暮るる 七十越えし 妻の眼くぼむ 」      
 「 目指したる 八十の峠共に越え これより日々を 大切に生く 」       

 マツさんは八十四歳で世を去った。「もう少し生きていれば旅行にでもと思ってたんだ
けど・・」と金一さんは悔やむ。七十過ぎても浅間山に登るような元気な奥さんだった。
マツ先生とみんなに呼ばれて慕われた先生だった。                 
 取材の時に金一さんの手を見せてもらった。大きな握りこぶしで逞しい手だった。裁断
のノミで切ったという右手の中指の先の傷が残っていた。ずっと洋服屋をやって来たから
ねえと淡々と話してくれた金一さん。最後に「いい時に生まれて、いい人生だったと思う
よ・・」と静かに語った。その波乱万丈の人生を、大きな谷間もあった人生を、いい人生
だったと振り返る。前向きな人の前向きな言葉だった。素晴らしい人生だ。