山里の記憶
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千鹿谷鉱泉:坂本春子さん
2019. 9. 04
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九月四日、秩父市上吉田の千鹿谷(ちがや)にある千鹿谷鉱泉を取材した。取材したの
は坂本春子さん(七十五歳)で、千鹿谷鉱泉の歴史や現在の状況について話を聞かせてい
ただいた。春子さんの自宅は上流の千鹿谷耕地にあり、通って鉱泉の手入れをしている。
今の千鹿谷鉱泉は、二十四時間入浴可能の無人鉱泉だが、施設が清潔に保たれているの
は春子さんが一人で手入れしているからだ。
四百年前、日尾城主の隠し湯として始まった千鹿谷鉱泉の歴史は古い。永禄十二年(一
五六九年)七月、日尾城主・諏訪部遠江守定勝の隠し湯として開かれ、寛政十年戌年(一
七九八年)六月、岩鼻代官所・榊原小兵衛によって官許された。(千鹿谷鉱泉運上帳より)
江戸時代の「秩父七湯」の一つに数えられて有名なお湯だ。江戸時代の秩父七湯は以下
の通り。( )内は現在の施設名
・新木の湯(新木鉱泉)・鳩の湯(鳩の湯温泉)・柴原の湯(柴原温泉)・千鹿谷の湯
(千鹿谷鉱泉)・鹿の湯(白久温泉)・簗場の湯(なし)・大指の湯(なし)
ちなみに現在は(和銅鉱泉)と(不動の湯温泉)を入れて秩父七湯とするらしい。
江戸時代から農休みなどで近隣の庶民に使われ、秩父札所観音霊場巡りの湯としても利
用されていた。太平洋戦争当時は都市住民の疎開にも使われたという。
日尾城主の隠し湯として春子さんのご先祖が湯宿を作り、守り伝えて来た秘湯。現在は
宿泊業務はやっておらず、お風呂の営業だけになっている。無人で二十四時間自由に入れ
る鉱泉として秘湯マニアの間では人気の鉱泉だ。
千鹿谷耕地手前の谷間にひっそりと建つ千鹿谷鉱泉。
玄関は自由に入れるのでそのまま入って入浴できる。
鉱泉に入りたい人は七百円を自分で払って勝手に入る。男湯・女湯があり、常時源泉か
け流しの天然鉱泉だ。鉱泉をボイラーで加温して適温にして流している。
家の裏手の山から源泉が湧いている。源泉はコンクリートのタンクを三つ満たしてその
ままボイラーに流す。ボイラーは二十四時間稼働しており源泉を加温してフロート調整し
ながら浴槽に供給している。自動的に適温にして源泉かけ流しのお風呂になっている。
「昔のボイラーはしっかりしていたねえ・・今は雷が鳴ったりすると電気系統がすぐ止
まっちゃうんでこまっちゃうよね・・」と春子さん。
源泉の湧出量はずっと変わらない。今まで源泉が枯れたのは一度だけだ。関東大震災の
時に源泉が枯れた。「もうだめなんかさあってなったらしいけど、何ヶ月かしたらまた戻
ったんだって」一時、宿の営業も中断していたが、すぐに再開した。最近の東日本大震災
でも湧出量は変わらなかった。
また、館内で使う水道の蛇口から出るのも同じ源泉だ。上がり湯も源泉だし、贅沢な湯
が楽しめる。ボイラーは二十四時間稼働しており、無人ということもあり、二十四時間入
浴が可能だ。ただ、タンクの容量に限界があるので大勢が一緒に入るような事があると湯
が足りなくなる事があるらしい。
月に二十人から三十人くらいの利用者があり、多くは個人利用者だ。(入り口にノート
が置いてあり、入浴者はそこに記入することになっている)この人数だと必要経費を回収
するのがギリギリの線だという。利用者が増えるのを期待しているが、宣伝もできないの
で難しいとのこと。少しでも利用する人が増えてくれればと思う。
昔から千鹿谷鉱泉は「薬湯」として知られており、皮膚疾患(あせもや水虫)、リウマ
チ、胃腸などによく効くと言われている。最近は森林浴と合わせて、病中病後の心身の療
養に訪れる人が増えている。無色透明微硫化水無臭の鉱泉で加温するだけで温泉になる。
実際に入ってみるとさらりとした湯は体を芯から暖めてくれ、上がった後のスベスベ感
は美人の湯といってもいいくらいだ。誰もいない家でお風呂に入っている感覚も新しい。
決して新しい施設ではないが、お風呂は綺麗で清潔だ。
入浴する人は自分で700円を払ってノートに記帳する。
春子さんは定期的に浴槽と風呂場・玄関の掃除をしている。
宿は代々春子さんの家の人がやってきた。昔は七月末の土用の丑にお風呂に入りお餅を
食べる風習があった。農休みと言われる時期に宴会をするのが楽しみの一つだった。その
会場として千鹿谷鉱泉が使われて「それは賑やかなもんだったらしいよ・・」とのこと。
昔は旅館が少なかったので利用する人が多かった。昭和三十年代に民宿ブームが起きて
観光客が増えた時にも宿は賑やかだった。春子さんは当時大学生で、帰省するたびに忙し
く手伝うような有様だったという。鉱泉宿だったけれど湯治客はいなかった。湯治という
習慣は秩父にはなかったらしい。
千鹿谷鉱泉は秩父事件の現場でもある。明治十七年九月二十七日、秩父困民党の井上伝
蔵、落合寅市、高岸善吉、大野福次郎で秘密会議が行われ、蜂起による解決を決めた場所
だ。この席上、井上伝蔵が大野福次郎に自由党入党をすすめ、入党記念として「濁りなき
、御代にあれど、今年より、八年後は、いとと寿むべし」の歌を贈った(小池喜孝著・秩
父嵐より)と言われている。
また秩父事件で大活躍した「千鹿谷の大将」こと島崎嘉四郎と弟の弥十郎の出身地でも
ある。千鹿谷集落はもともと日尾城に詰めていた武士の子孫で作られており、刀なども各
家にたくさんあった。秩父事件で唯一の勝ち戦と言われる大活躍をした島崎嘉四郎と弟の
弥十郎の家。常に警察の監視が来ていて長い間家の人は大変だった。嘉四郎は氏名を変え
て山梨県吉田町(現在の富士吉田市)で生涯を全うした。今は八十代のおばあちゃんが一
人で家を守っている。
秩父事件の宿ということで大学の先生や研究者が泊まりに来ることも多かった。春子さ
んはよく石間(いさま)や椋神社(むくじんじゃ)などを案内したという。
北海道から来た高校の先生が宿泊中に色々書いた原稿のようなものがゴミ箱にあって、
それを帰ってから捨てたところ、後日電話がかかって来て「あの原稿はどうしましたか」
と言うので「捨てた」と言ったらひどく落胆した様子だった。「大事な原稿だったんでし
ょうけどねえ、仕方ないですよね・・」と笑う。色々な人が来て泊まっていった。
秩父事件といえば神山征二郎監督の映画「草の乱」。撮影時、殺陣師の人たちが千鹿谷
鉱泉に泊まった。監督ほかスタッフは「元気村」に泊まり、道具関係の人たちは「山あい
の里キャンプ場」に泊まった。監督は最後に千鹿谷鉱泉に泊まって色々話してくれた。
上吉田の人たちにとって映画「草の乱」は特別な映画だ。地元が舞台というだけでなく
先祖の行動を賛美してくれるありがたい映画だ。吉田役場の人たちが中心になり、大勢の
エキストラや応援部隊ができた。映画に直接出資した人も多かった。完成した映画を涙を
流しながら見た人も多い。全国的に売れた映画とは言い難いが、秩父の人たちにとっては
素晴らしい映画だった。
風呂場は24時間使っているので換気用の窓が壁に空いている。
取材の後、入浴した。湯はサラサラで体が芯から温まった。
春子さんのご主人榮次朗さん(七十三歳)が出勤前に顔を出してくれた。榮次朗さんは
秩父エレクトロン株式会社の常務で忙しい出勤前に取材に応じてくれた。
単刀直入に聞いた「これから千鹿谷鉱泉はどうなりますか?」榮次朗さんはニコニコ笑
いながら「もう十何年も考えているんだけど、妙案はないよね・・」とのこと。例えば、
若く有望な人が経営させてくれと言ってくれば貸すことも考えている。また、温泉スタン
ドの設置などで地域の人に鉱泉を使ってもらう方法も考えているとのこと。
いずれにしてもしばらくは現在の方法で営業するしかなく、春子さんも通いながらの掃
除や管理が続くことになる。四百年続いた鉱泉宿の歴史が重くのしかかるが、結局はなる
ようにしかならない。続いて欲しいと思うが、どうなるかはわからない。
取材の後、千鹿谷集落を見に車で奥まで走った。千鹿谷集落は最近まで上流から山の外
に抜けられる道がなく、どん詰まりだった。平成十三年完成の合角(かっかく)ダムの工
事で出た土砂を谷に埋めて道が出来、小鹿野と峠越えで繋がった。集落の人はこの道が便
利なので今ではもっぱら山道を使って小鹿野に出るようになった。千鹿谷鉱泉前の道はま
すます車も人通りも少なくなってしまった。
奥山に隠れるように何軒かの家の軒先が見えた。普通の広さではない広大なお墓が山に
広がっていてびっくりした。峠に抜けるはずの道をどこで間違えたかぐるりと回って元の
道に戻ってしまい、狐につままれたような不思議な気分になった。ここに四百年住み続け
て来た人たちにはどんな歴史が伝えられているのだろうか・・・秩父は本当に奥深い。