山里の記憶242


豆の脱粒:加茂下光子(てるこ)さん



2019. 12. 17


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 十二月十七日、秩父荒川・贄川(にえがわ)の古池耕地に取材に行った。取材したのは
加茂下光子(てるこ)さん(九十四歳)で、正月までやっているという豆の脱粒を見させ
て頂いた。光子さんは「奥宮祭り」の取材をした加茂下陽造さんのご母堂で、毎日元気に
働いている元気なおばあちゃんだ。                        
 光子(てるこ)さんは、大正十四年生まれの九十四歳。月・水・金と近くの荒川園にデ
ィサービスに行く以外は畑仕事をしている。今は収穫した豆類の莢外し(脱粒)を正月ま
でやるとのこと。体はいたって健康で、医者にかかることもないという。       

 豆の脱粒は大きなビニールハウスの中で行なっている。収穫された小豆・大豆・黒豆が
分けられて並んでいる。大きな枝から叩いて脱粒したものがむしろに広げられている。小
さな莢(さや)に残った小豆を手で丁寧に割り出しているところだった。       
 小豆はお正月のアンコや赤飯、お汁粉に使う。光子さんの仕事は豆の脱粒と虫食いや秕
(しいな)を選別し、ビンに保管するまで。豆を使う料理は嫁の啓子さん(七十歳)が担
当で、光子さんは「あたしは食べるだけだぃねぇ」と笑う。             

光子さんの仕事場はこのビニールハウス。豆の脱粒をしている。 小豆の莢から一つ一つ実を取り出している。細かい作業だ。

 バケツから小豆の莢を取り出し、割って小豆を外す作業を淡々と繰り返す光子さん。そ
の作業を見ながら昔の話を聞かせてもらった。大正十五年生まれということは戦前の事も
記憶に残っている。話は戦争時代の厳しい暮らしの話から始まった。         
 光子さんがはっきり覚えているのは空襲のこと。アメリカ軍の飛行機が五機編隊で飛ん
できて爆弾を落とした。伊豆沢に爆弾を落とした音を大塩野で聞いた。「ドカーンってで
っかい音がしたんだよ・・」アメリカ軍の飛行機は始終飛んできて怖かったという。  
 戦時中は食べるものがなかった。麦もサツマイモも全部供出させられて家にはカスのよ
うな物しか残っていなかった。食料は配給で、米・砂糖・麦・サツマイモなど人数で割り
当てられた分しか手に入らなかった。                       
 戦争が終わっても配給は変わらなかった。米の飯は正月しか食えなかった。割り飯ばか
りで、それに大根やサツマイモを増しに入れた飯ばかりだった。両神の大谷(おおがい)
で生まれて育った光子さん。農家だったので食べ物はなんとか工夫して手に入れていた。

 戦後、そんな苦しい時代にお見合いの話が持ち上がった。お相手は古池耕地の菊雄さん
で、同じ大正十四年生まれだった。菊雄さんは浜松の海軍に出征していたが、浜松で終戦
を迎え、故郷に帰ってきていた。祖母が嫁に行った家が光子さんの家で、親戚だったが結
婚相手として迎えてくれた。物資不足の時代で、質素な嫁入りだった。        
 嫁いできた家は両親と菊雄さんの兄弟など八人が暮らす家だった。八人が食べるのが大
変で、毎日食べ物をどうするかが問題だった。わずかな材料を工夫しておじややすいとん
をよく作った。麦飯、うどん、すいとんなどが主食で、白いご飯はお正月だけだった。 
「今の人は米の飯が普通に食えるんでいいやねえ・・ありがたいことだぃねぇ・・」と苦
しかった昔の食生活を思い出していた。                      

 お蚕はいっぱいやった。春蚕・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕・晩々秋蚕と年五回の養蚕をやるの
は大変だった。座敷も二階も蚕に占領された。それこそ「こくそ(蚕糞)を踏みながら歩
き回るような生活だった・・」と光子さんも振り返る。現金の入る仕事は少なく、養蚕は
貴重な現金収入のための仕事だった。                       
 牛飼いもやった。十軒あった耕地で五軒で牛を飼っていた。乳牛を五頭飼っていて、乳
搾りが仕事だった。「いやな仕事だったねぇ・・」という光子さんが思い出すのは牛に尻
尾で叩かれたことや足で蹴られたこと。ある時、牛が逃げ出したことがあった。「おばあ
と捕まえに行ったんだぃね・・」牛を捕まえるのも女衆(おんなし)の仕事だった。  

 コンニャク栽培は大きな仕事だった。一町歩の畑の他に大野原や白久(しろく)に畑を
借りてまでコンニャク栽培をした。当時、現金収入のためにはコンニャク栽培が一番良か
った。三男一女の子供に恵まれたが、子供を学校に出すお金を得るためにコンニャク栽培
は真剣に取り組んだ。霜除けのワラ敷きは夜の八時まで畑にいた。本当によく働いたもの
だった。十一月には「ふるさと祭り」があるのだが、ちょうどコンニャクの収穫の時期な
ので行ったことがない。コンニャク作りは大事なので仕方ないことだった。コンニャク栽
培は今も続けている。自家製のこんにゃくは自慢の一つだ。             

 子供を育てていて大変だったことは着るものがなかったこと。丁度いい大きさの服を買
うとすぐに小さくなってしまうので少し大きめの服を買った。つぎはぎだらけになってし
まっても下の子にはお古を着せた。当時は服の行商というのがあった。セーターとかシャ
ツとか、大豆や小豆と交換で買えた。豆一升でパンツ一枚とか交換したものだった。子供
たちも普段は半纏を着て焚き木背負いなんかをしていた。              

 昔、白い米のご飯を食べられるのは正月三が日だけだった。他は麦飯で、うどんやすい
とんがそれに変わるときもあった。お正月の餅は自分の田んぼで作ったもち米で作った。
小豆や大根を米の足しにしてよく食べたものだった。七草には小豆粥を作った。    
 正月に神棚に供えた塩鮭は貴重品だった。酒粕に漬け込んで、少しずつ出して食べ、五
月くらいまで食べつないだものだった。山の人間にとって塩鮭はご馳走だった。    

莢から外した小豆。これを選別して瓶に詰めるまでが仕事だ。 今は亡き夫の時計を身につけ、時間を決めて行動している。

 昔の話から今の話へと話題を変えた。今現在の光子さんの仕事について聞いてみた。光
子さんにはやることが決まっていて、それを淡々と行う毎日だ。           
 二月までは大豆の脱粒をビニールハウスの中でやっている。三月になるとジャガイモの
植え付け用に種芋を準備する。大きな種芋は包丁で切って切った面に灰をまぶしておく。
植え付けもやる。尺棒で測って種芋を置き、鍬で土をかける。お彼岸くらいまでにやる。
 四月にはお節句用のもち草(ヨモギ)を摘んでくる。草餅を作るのは嫁の啓子さんの仕
事で、光子さんは「あたしは食べるだけだぃね・・」と笑う。            

 四月、畑や原っぱに出るワラビやフキノトウ・フキを摘む。フキの皮むきは手が真っ黒
になる。光子さんはフキとワラビの煮物が大好きだという。ウドやタランボウの胡麻ヨゴ
シモ大好きだ。「最近はどこの人だか、人間様がワラビやフキを採って行くんで困ったも
んだぃねぇ・・」と嘆く。野生動物は防げても人間は防げない。困ったことだ。    
 夏は草むしりが光子さんの仕事だ。お盆前にはお墓の掃除が仕事になる。「本家・新宅
とお墓がいっぱいあるんで掃除が大変なんだぃ・・でも墓周りをきれいにするんはいい気
持ちだよ・・」冬の落ち葉掃きも含めてお墓の掃除は生きがいになっているようだ。  
 盆棚も毎年作る。盆棚を作るのは息子の陽造さんの仕事で、光子さんは飾り物を準備す
る。盆にはぼた餅やお寿司を食べる。十三日が迎え火で十六日が盆送りとなる。    

 秋のお彼岸の草むしりも光子さんの仕事だ。春・秋のお彼岸にはぼた餅を食べる。お彼
岸が過ぎるとコンニャク芋の整理整頓が始まる。収穫したコンニャク芋を分類し、保存す
ルもの、出荷するものなどに分類する。ハウスの棚には分類されたコンニャク芋がずらり
と並んでいる。この時期、栃の実を拾ってきて皮をむくのも光子さんの仕事だ。    
 十月過ぎから豆の脱粒が始まる。収穫した豆類は叩いて脱穀され、残った大量の小さい
莢を一つずつ割って脱粒し、虫食いや秕(しいな)を選別する。豆類は食べるまでにする
のが手間のかかる仕事で、それが光子さんの仕事になる。選別して一升瓶に詰めるまでが
光子さんの仕事だ。一升瓶に入れて置けばネズミに食われることはない。瓶には年号を書
いた布切れを付けておく。                            

選別して保管しているコンニャクの種芋。商品化は三年かかる。 大豆のゴミを除く箕(み)を鮮やかに使って見せてくれた。

 最近は曜日がわからなくなってねえ・・と嘆く光子さんだが、日々やることがあって忙
しい毎日だ。毎週火曜日にヤクルトを買うのは自分の財布からお金を出して払う。テレビ
を見ながらゴロゴロする日はなく、いつも何かしら動いている。亡くなった菊雄さんの腕
時計を腰に付けていて、自分で時間を確認しながら行動している。          
 長生きの秘訣はと聞くと「早寝・早起きさぁ、それとご飯を食べることかねぇ」と明快
な答えが返ってきた。さらに健康の秘訣はと聞くと「時季の仕事をすることかねぇ」とこ
れまた明快だった。病気もなく元気に働く九十四歳の姿に感動した。         
 最後に「箕(み)」で大豆のゴミを取る作業を見せていただいて取材が終わった。光子
さんを自由に働かせている息子の陽造さんもすごい人だと思った。