山里の記憶243


ふき味噌:今井くにさん



2020. 2. 11


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 二月十一日、秩父市・吉田阿熊にふき味噌の取材に行った。取材したのは今井くにさん
(九十二歳)で、早くも出始めたフキノトウを使ってふき味噌を作る様子を取材させてい
ただいた。くにさんの家は吉田阿熊の室久保という耕地にある。山の奥ではあるがとても
日当たりがよく、暖かい耕地だ。日当たりが良く暖かいのでこの時期としては早いが、フ
キノトウがあちこちに顔を出していた。                      

 挨拶をしてお茶をいただき四方山話をした後、くにさんが「それじゃあふきったまでも
採りに行くかね」と立ったので後を追う。家を出ると庭先や畑の縁に出始めたフキノトウ
を指差して見せてくれた。「今年はいつもより少し早いかねえ・・」と言いながら小さい
ナイフでフキノトウを取るくにさん。フキノトウといってもまだ開かない丸いものだ。ま
さに「ふきったま」と呼ぶにふさわしい丸い玉のようなフキノトウだ。        
 両手にいっぱいのフキノトウを持って居間に戻る。娘さんが摘んでおいてくれたフキノ
トウも一緒に炬燵の上でザクザクと刻む。見る見る大量のフキノトウが刻まれて山になっ
ていった。居間に蕗の香りが立ち上がる。あまりの量の多さに「少し多くないですか?」
と聞くと「炒めるから少しになっちゃうんで大丈夫だぃねぇ」と気にもしない。    
 大量の刻んだフキノトウをボウルに入れて台所へ運ぶ。九十二歳でも台所仕事は自分の
仕事だと毎日台所に立つくにさん。ふき味噌は毎年作っているのでと手慣れた作業が続い
てい行く。                                   

暖かい春。秩父では「ふきったま」と呼ぶフキノトウが出て来た。 大量のフキノトウを刻むくにさん。春の香りが立ち上がる。

 フライパンに大さじ三杯くらいの油を入れて熱し、大量の刻んだフキノトウを入れる。
ジャーっという音がして賑やかになる。菜箸でグイグイとかき回すと、くにさんが言って
いたように見る見るフキノトウのカサが小さくなる。しんなりして来たところで味付けを
する。「味付けは目分量なんだぃね」と言いながら、味噌と砂糖をほぼ同量皿に取る。フ
ライパンに一気に投入し、馴染むようにかき回す。味噌は白味噌を使っていたがどんな味
噌でもいいと言う。コップ半分の水を加え、蓋をする。炒め煮のような感じにする。「こ
れで煮詰めたら出来上がりだぃ・・」と手早い調理だった。しばらく煮詰めて味見をする
くにさん「ちょうどいいねぇ・・」と満足そうに笑った。              

台所に刻んだフキノトウを運び、これから炒める。 油でフキノトウを炒め、砂糖と味噌で味付けをして煮詰める。

 出来上がったふき味噌とご飯を持って居間に戻る。炬燵でお昼ご飯を食べ、お茶を飲み
ながらくにさんに昔の話を聞いた。                        
 くにさんは昭和二年の十二月にここ吉田阿熊で生まれ、兄と二人で元気に育った。吉田
の小学校を六年で卒業し、機屋に奉公に出た。奉公先は秩父の大島屋と言う機屋だった。
昭和十八年、戦争が激しくなり、秩父で働いていたくにさんだったが国家総動員法により
東京の軍需工場で働くことになった。北葛飾の軍需工場で旋盤工の仕事をするはずだった
のだが、実際に行ったところ仕事どころではなく、毎日防空演習をする有様だった。  

 くにさんの兄は満州に出征していた。昭和十八年の一月に満州独立守備隊に編入され、
お国のために戦うはずだった。しかしその年の十二月、列車事故で不慮の死を遂げてしま
った。「甲種合格って喜んでいたのに、事故で亡くなっちゃってねぇ・・」と不幸な兄を
思うくにさん。兄の死という不幸な事件で、くにさんは急遽東京から帰郷した。二十歳の
時の事だった。思えば、兄が自らの死をかけて妹を守ったのかもしれなかった。東京はそ
の後アメリカ軍の激しい空襲に晒され、何十万もの人々が命を落とした。軍需工場に勤務
していたくにさんがそのまま東京にいたら命の保証はなかった。「運が良かったのかもし
れないねぇ・・」と当時を振り返る。                       

 ふるさと吉田阿熊に帰ったくにさん。兄が亡くなり、家を継ぐのは自分しかいない。男
の人が極端に少ないこの時代に婿を取らなければならない。そんな時に兄の友人だった人
が電球を売りに来て話しているうちに「いい人がいるから」と紹介してくれた。    
 吉田番場沢の勝一さんがその人だった。勝一さんは十七歳で志願兵として満州に渡り、
満州から沖縄に転戦して戦闘中にアメリカ軍の捕虜になって終戦を迎えた人だった。昭和
二十一年に復員し、仕事を始めたところで、偶然ではあるが兄と同級生だった。    
 昭和二十二年四月に二十八歳の勝一さんと結婚したくにさん。二十三歳の時だった。 

 父母との四人暮らしが始まった。木の伐採などの山仕事が中心で、畑は少なかったが大
麦や小麦を作った。勝一さんはよく働いてくれた。家が新しい家で近所に畑が少なく、遠
くの粟野山(あわのやま)に畑を借りて作物を作った。粟野山の畑には尾根を二つ越えて
四十分くらいかかった。肥料も作物も全部背負子で背負って運んだ。粟野山の畑ではじゃ
がいも・さつまいも・麦など何でも作った。一日一往復で弁当持参。遅くまで働いたもの
だった。粟野山には畑を貸してくれた出浦さんの家があり、軒先を借りて作物を貯蔵して
おき、必要な時に背負って運んだ。他には母親が好きでお蚕をやっていた。      

 両親の話で面白い話を聞いた。母親は両神に嫁いだのだが、「もう嫌だ」と言って実家
に帰って来てしまった。父親がそれを追ってここに来て住み着いてしまったのだという。
 そして自分で家を建ててしまった。だから新しい家で、当然畑もなく出仕事を余儀なく
されてしまったのだそうだ。後日談があり、日高に住むくにさんの娘が美の山の占い師に
占ってもらったところ「両神にお墓があるから供養しなさい」と言われた。調べたところ
父親の実家のお墓があり、見る人もなく荒れ果てていた。そこに供養塔を建てて拝んでも
らったところ平穏な日々になったという話だった。                 

 勝一さんは血圧が少し高かったがよく働いてくれた。畑の少ない家で家族の食べ物を作
り、稼ぎ仕事で木の伐採などをやった。子供は男二人女二人の四人を授かった。子供たち
を育てるために毎日の仕事があった。その甲斐あって子供たちは元気に育ち、世帯を持っ
た。今では孫が七人もいてひこ孫が大学生になるまでに育っている。やしゃごもいるが、
くにさんはまだ会ったことがない。                        
 子育てが一段落してからは勝一さんとよく旅行に行った。九州には何度も行った。北海
道には二度、伊勢にも二度行った。全部団体旅行だったが楽しい旅行だった。そんな勝一
さんだったが沖縄だけは戦争の記憶があって行くことはなかった。          
 外国にも出かけた。中国、タイ、グァム、サイパン、香港に行った。中国では万里の長
城や天安門を見学し、タイでは象に乗ったのがいい思い出になっている。くんさんが旅行
で思い出すのが孫の新婚旅行のこと。寄居に住む孫が結婚して新婚旅行がグァムだった。
この新婚旅行に母親とくにさんを招待してくれた。優しい孫のおかげで三世代揃ったグァ
ム旅行が実現した。ありがたいことだった。「いい孫なんだぃね・・」と嬉しそう。  

息子の金一さんが囲炉裏でヤマメを炭火焼きしてくれた。 暖かいご飯にふき味噌を乗せていただく。春の香りと苦味が美味しい。

 息子の金一さんが囲炉裏で炭を熾し自分で釣ったヤマメを塩焼きにしてくれた。お昼は
ふき味噌とヤマメの塩焼きという豪華なご馳走だった。ふき味噌は味付けも完璧でほのか
に苦い春の味を堪能させてもらった。味付けは目分量だからと謙遜していたくにさんだっ
たが、毎年作っているふき味噌だけに間違うはずもなかった。食べきれなかった分はお土
産にいただいた。「昔はよく茶まんじゅうを作って近所に配って喜ばれたもんだった」と
話すくにさん。玉砂糖を使って照りの良いまんじゅうだったという。自慢の茶まんじゅう
を食べてみたかった。「今は、はあ作んなくなっちゃったかんねぇ・・」とさみしそう。
 近所で採れるというミカンもご馳走になった。ミカンが採れる程暖かい場所だというこ
とも初めて知った。吉田阿熊といえば山奥の狭い耕地というイメージがあったが、随分と
明るく暖かい場所だったのも驚きだった。                     

 くにさんは今デイサービスに通うのをとても楽しみにしている。毎週木曜日、吉田久長
の白砂惠慈園のデイサービスは輪投げやラジオ体操などをするので面白い。家にいると誰
とも話をしないことも多いし、色々話をする相手がいるのが楽しい。         
 今まで大きな病気もなかったし、元気に過ごして来た。医者にかかったこともなく、血
圧の薬をもらうだけですんでいる。体が健康なのがありがたいことだと言う。     

 息子の金一さんと釣りの話をしたり、秩父事件の映画「草の乱」の話をしたりとても充
実した取材だった。金一さんは草の乱の撮影時にスタッフの送迎バス運転手をしていたそ
うで、撮影の裏話や自分が中心になって行ったスチール写真撮影の話などしてくれ、分厚
いアルバムも見せてくれた。どれも映画撮影時の貴重な写真ばかりで素晴らしいものだっ
た。金一さんは郷土写真家で、居間の鴨居にはたくさんの表彰状が並んでいた。