山里の記憶245


秩父イワナを守る:須崎武男さん



2020. 4. 02


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 須崎武男さんが荒川水系渓流保存会の会長として渓流魚の飼育を始めたのは平成一(一
九八九)年のことだった。当時三十六歳だった武男さん。小学校の教諭として働きながら
、週末は横瀬川支流の生川(うぶかわ)に通う日々が続いた。生川上流にある守屋恒治さ
んのマス釣り場を借りて改造した飼育池が渓流魚飼育の場所だった。         
 当初はヤマメの養殖をしていた。秩父ヤマメを育て、採卵し稚魚を放流することが目的
だった。ヤマメの養殖は様々なノウハウもあり、比較的容易だった。会の運営も飼育作業
も順調だった。会員も多く、活動に賛同する人も多かった。             

 しかし、武男さんはヤマメを飼育しながらより難しいと言われていたイワナの養殖に興
味を持ち始めていた。秩父ヤマメは他のヤマメと比べてこれといった特徴はなかったが、
秩父イワナは他地域のイワナと比べ大きな違いがあったからだ。秩父漁協が放流するイワ
ナはアメマス系のイワナで、斑点の色が白く大きいのが特徴だった。釣り人からも「これ
は秩父のイワナじゃない」という声が上がり始めていた。秩父の川に放流するイワナは秩
父イワナでなければならない。しかしその秩父イワナを飼育している場所も人もいない。
だったら自分でやってみようじゃないか・・・そんな動機だったと話してくれた。   

毎年2月に開催される保存会総会の様子。 11月の採卵作業の後で一休みしている参加者。

 平成十(一九九八)年、埼玉県水産試験場から二千匹の秩父イワナの稚魚を譲り受け、
飼育を始めた武男さん。想像以上の壁にぶつかった。ヤマメよりもはるかに神経質なイワ
ナを池で飼うことの難しさ。ヤマメよりも低い水温が必要なイワナのために導水パイプや
池の水流、飼育池の日除けなどを工夫しなければならなかった。何より、前例がないので
全て手探りで飼育をすることが大変だった。                    
 平成十二(二〇〇〇)年に初めてイワナの採卵に成功した時は本当に嬉しかったという
。武男さん四十七歳の時のことだった。荒川水系渓流保存会は秩父イワナの保護・飼育を
目的とする会へと変貌していった。しかし、ヤマメと違って難しい飼育は会員の変動をも
たらした。ヤマメの飼育なら慣れた人がいたのだが、イワナの飼育は武男さんが試行錯誤
しながらの作業だったために一人でやることが多くなり、負担が増えた。新しく会員にな
る人は秩父外の人が多く、急な作業に参加できる人も少なくなった。次第に作業は秩父の
数人の会員と武男さんに集中するようになった。                  

 秩父イワナ飼育の年間作業を聞いた。これだけの作業を仕事をしながら週末だけでやっ
ていたのかと驚かされた。                            
 一月の作業は前年に採卵し、ふ化した稚魚の飼育だ。餌がきちんと供給されているか、
水が正常に供給されているか、汚れていないかなどの確認だ。雪が降ると道が通れなくな
るが、雪の被害が出ていないかを確認するために雪の中を池まで行かなければならない。
雪の被害があれば修理し、修復しなければならない。                
 二月には保存会の総会がある。秩父市内の会館の会議室を借りて一年間の作業を話し合
う。総会後の懇親会は楽しみの一つだ。会員の相互交流もこの懇親会で行う。     
 三月も稚魚の飼育を続ける。水が暖かくなるとヌルが出るので池の掃除をする。   
 四月には一年魚の池移動をする。会員が協力しての作業になる。池の清掃と日除け掛け
をして、稚魚の放流を行う。会員が手分けしての作業は春の恒例行事だ。       
 五月から七月には会員が企画して秩父イワナの現地調査をする。イワナを釣り、DNA検
査用のアブラビレ採取と他県産イワナの繁殖状況を調べる。釣った個体をアクリルボック
スに入れて撮影して記録するのも目的のひとつだ。                 

赤沢出合に集合して、源流のイワナ調査に向かう会員。 イワナを釣って写真を撮り、アブラビレでDNAを調べる。

 八月には台風の対応が必要になることがある。増水して送水パイプに被害が出ると飼育
イワナにとって生死をかける事態になる。台風の後に池の様子を見るのは武男さんにとっ
て何よりの優先事項になっている。被害が大きいと会員に呼びかけ、緊急の補修作業をし
なければならない。何としても池の水が止まることは避けなければならないからだ。  
 定期的に池周辺の草刈りもやっている。                     
 九月も台風に神経を使う。夏は池の水が汚れるので清掃をすることもある。池の清掃は
この先の採卵の準備作業にもなる。魚の状態を確認する。イワナは充分に餌をやっている
と一年で二十センチ、二年で三十センチ、三年で四十センチ以上に成長する。イワナは二
年魚から採卵する事ができ、数年にわたって採卵する事が可能だ。          
 十月は採卵の準備作業が多くなる。器具や薬品の確認、整備、点検などだ。飼育小屋の
片付けもその作業に加わる。知らない人にはできないので、武男さんが中心でやる。  
 十月は大滝の紅葉祭りに参加するので、その準備と運営も行う。パネル作りやサンプル
の展示などやる事が多い。恒例になっているので楽しみにしている人も多い。     

 十一月は大事な採卵の作業。会員を集めて行う保存会最大の作業で、神経を使う作業で
もある。手分けして、池のイワナを雄・雌に分ける作業から始まる。等調液を作る作業。
麻酔液を作る。イワナに麻酔をかける。雄のイワナから精子を絞る。雌のイワナから卵を
取り出す。卵に精子をかけて受精卵を作るまでの作業が一日で行われる。多くの会員が参
加する賑やかな一日で、終わると充実感と達成感を感じるという。          
 十二月に大事なのは検卵の作業。ピンセットを使って未成熟卵や死卵を取り除く繊細な
作業で、寒い中で神経をすり減らす作業だ。採卵した卵は積算水温が二百五十から三百度
になると発眼し、さらに同じ積算水温でふ化する。十一月七日に採卵した卵が十二月十二
日から発眼したという記録がある。ふ化するのは一月だ。              

 こうして書いて見ると、ほぼ毎週飼育池に通っていることがわかる。その情熱には本当
に頭が下がる。聞くと、協力してくれる多くの会員がいるからできることだと言う。イワ
ナという生き物を飼育するということは日々の管理が重要で、自分がそこはやるつもりだ
けど、何かがあったらみんなに助けてもらえるのがありがたいと言う。武男さんあっての
保存会なんだと納得した。                            

 平成十二(二〇〇〇)年から保存会では秩父イワナのDNAを調査するようになった。秩
父の渓流に生きている在来イワナの遺伝子を渓流ごとに調査し、その生態を明らかにしよ
うというものだった。釣りをするすべての会員が協力して調査が行われた。      
 秩父水系すべてを対象に荒川本流、入川、滝川、大洞川、中津川、横瀬川の六水系。荒
川本流では滝川(大除沢)。入川では本流、真ノ沢、股ノ沢、荒川谷(金山沢)、赤沢。
滝川では本流、水晶谷、古礼沢、ブドウ沢、枝沢、槙ノ沢、金山沢、曲沢、豆焼沢。大洞
川では本流、井戸沢、サワラ沢。中津川では大ガマタ沢、大若沢。横瀬川では本流の二十
一河川から秩父イワナのアブラビレ小片による検体四百を採取しての遺伝子解析だった。
 この解析結果からわかったことは、河川特異的な遺伝子特徴が存在することだった。移
植・放流への警鐘が遺伝子解析からも必要とわかった。               

 秩父イワナを飼育して稚魚放流することが目的だったが、放流出来る範囲がこれではっ
きりした。秩父漁協が放流を繰り返している範囲以上奥に放流してはならない。そして、
漁協に秩父イワナを放流してもらう事が保存会の目的となった。           
 武男さんは会員にこれを伝え、会の立場で漁協と関係を持つように図った。その結果漁
協から保存会で飼育した稚魚を買い上げてもらい放流することに繋がって行った。保存会
が多くの人にその存在をアピールできた一例だ。                  

保存会の会長としてテレビ取材を受けている武男さん。 NHKが秩父イワナの飼育について取材に来たことがあった。

 それにしても武男さんのここまでの苦労は並大抵のことではなかった。病気で池のイワ
ナが死んでしまったり、パイプが詰まって水が出なくなりイワナが死んでしまったりした
こともあった。飼育しているイワナを夜に盗んでゆく心無い人間もいた。一人で飼育池の
世話をしている時に心が折れそうになった事もあった。会員の退会が続いたことも辛かっ
た。しかし、新しい会員も増え、趣旨に賛同する人も増えてきた。秩父イワナを保護し、
在来種を守るために活動する新しい会員が武男さんを後押ししてくれた。       

 保存会の活動が広報されて、その存在が認められ、多くの新聞や雑誌、テレビ局の取材
が来るようになった。武男さんの日々の活動が報われる日が来た。淡々と無表情で取材に
応える姿はいつも変わらなかった。ぶっきらぼうで朴訥な受け答えは、決して洗練されて
はいないけれど、武男さんの生き方そのものだったように思う。荒川水系渓流保存会は武
男さんが会長でなければこれだけの実績を上げられなかった。その朴訥で真摯な生き方に
敬意を評したい。                                

参考書籍:荒川水系渓流保存会発行 「秩父イワナ・在来種を守るために」