山里の記憶247


ボヤまるき:黒沢和義



2020. 9. 04


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 子供の頃ボヤまるきという仕事があった。ボヤとは枯れ枝のこと。まるくというのは秩
父弁で束にするという意味だ。枯れ枝を束にすることをボヤまるきという。当時まだプロ
パンガスが家庭にはなく、囲炉裏やカマドで薪を燃やして料理をしたり暖をとっていた。
囲炉裏やカマドの焚き付け用にボヤが必要だった。ボヤはたくさんあるに越したことはな
く、ボヤ集めが子供達の重要な仕事だった。小学生の頃から中学初めくらいまでやってい
たように記憶している。                             

 晴れた休みの日で、野良仕事がない時はボヤまるきに出かけた。当時、山に落ちている
枯れ枝はどこで拾っても良かった。厳しい掟があり、落ちている枯れ枝や細い立ち枯れの
枝葉大丈夫だが、ナタや鎌、鋸などで伐ることはまかりならなかった。どの家でもボヤが
必要で、大勢の子供達が競争で山に入るものだから近くの山では落ちてる枯れ枝を見つけ
ることも大変だった。いきおい、遠くの山に足を伸ばすことになる。遠くの山の方がボヤ
もたっぷりあるので、時間がかかっても遠くに行った方が仕事は早く終わった。    

 ボヤまるきは焚き付け用の枯れ枝集めだが、焚き付けには着火材も必要だった。着火剤
として重宝したのが杉っ葉だった。杉林はいっぱいあり、枯れた杉っ葉はいくらでも落ち
ていた。カゴを背負って杉林に行き、良い杉っ葉をカゴいっぱい詰め込んで来るのも子供
の仕事だった。良い杉っ葉とは乾燥していて新しいもの。濡れたものや古いもの、まだ青
い杉っ葉は拾わなかった。杉っ葉をカマドに入れ、その上に細いボヤを乗せ、マッチで火
をつけると簡単に火が着いた。着火剤としてはとても優秀な材料だった。       

杉林に行って杉っ葉を拾うのも子供の仕事だった。 カゴにいっぱい詰め込む。足で踏んで詰め込んだ。

 ボヤまるきに限らず、山に入る時はいつも自分のセータ(背負子)を背負って出かけた
ものだった。山道の途中で枯れ枝が落ちてたり、草があれば草刈りして背負って帰るため
だった。セータはまるで自分の体の一部のように体に馴染んでいた。         
 我が家は兄弟が多かったので、自分用といっても弟と共用だった。兄弟の少ない家では
自分用のセータを持っている子供が多かった。自分のセータがあるのはいいなあ、とうら
やましかったことを覚えている。                         

 当時は大勢の人が常に山に入るので、どこの山にもたくさんの山道があった。そして山
道はとても綺麗だった。枯れ枝も草も落ち葉もみんな近所の人がさらうのでゴミがないの
だ。裸足でも歩けるくらい山道は綺麗だった。山道の落ち葉はデーマン籠という大きな籠
に集められて落ち葉堆肥の貴重な材料になった。落ち葉は自分の山で採るものだったが、
許可をもらって他人の山で落ち葉を採ることもあった。何がしかの謝礼を払っていたのだ
と思うが、子供は知らない。子供が集めるのは落ちた枯れ枝だ。           

 ボヤまるきに行く時は気合を入れて出かける。お弁当などという贅沢なものは持たせて
もらえない。早く集めて早く帰ってくるのが優秀な子供ということになっていた。目星を
つけた山道を登り、枝がいっぱいありそうなところでセータを下ろす。誰かが前日に入っ
ていたりすると最悪で、再度別の山に向かわなければならなくなるから真剣だ。    
 あちこち走り回り、セータの近くに枯れ枝を集める。崖もあるし、大きな岩もある。急
斜面もあるが山を動くのは慣れたもの。空身で動き回って枯れ枝を集める。      
 立ち枯れの細い枝も折れるものならボヤ扱いだった。山に入る時は腰に鉈をつけるのが
常だったが、ボヤまるきの時は鉈を使ったことを怪しまれるのが嫌で、鉈を持って行かな
かった。太い枝が落ちていると嬉しかった。早く束にできるからだ。         

 ひと抱えも枯れ枝を集めるといよいよまるく作業に入る。持参したワラ縄を二本、地面
に平行に並べ、その上にボヤを並べる。両手で縄を引きしぼり、膝で体重をかけてきっち
りと縛りあげる。この時、あまり強く体重をかけるとせっかく集めた枝がバキバキに折れ
てしまうので微妙な力加減が必要だった。                     
 セータにくくりつけるのも大事な作業だ。縛り方が緩いと枝の束が煮崩れして落ちてし
まったりする。立木にぶつかったりしても崩れないようにしっかり止めるのが山っ子の心
得だった。ただ、セータにくくりつけるバランスが難しく、何度も束を落としてしまった
ことを記憶している。舌打ちしながらくくり縄を結び直すのが常だった。       

大雨の後など崩れた道には丸太の橋がかかっていた。 真っ直ぐで急な坂道は下りが嫌だった。

 山道を歩くのは好きだった。登りはきついけれど、尾根道や下りは楽しかった。しかし
毎日晴れているわけではなく、雨の後などは滑るのが怖かった。崖崩れの場所などに丸太
を渡しただけの橋がもあり、そんな場所では落ちないように慎重に歩いた。橋から落ちた
りするとみんなから笑われた。長く急な下り坂も嫌いだった。落ち葉が積もると本当に良
く滑るので、荷を背負ってその場所に来ると本当に慎重に下った。          
 冬の山道は木の葉がないので対岸の山まで見えて楽しかった。稀にウサギが動いたりす
ると興奮して大喜びで目で追いかけたものだった。鳥が見えるのも楽しかった。    

 セータで何でも運んだ時代。体が見えなくなるほど大量のカヤ束を運ぶ人がいたり、桑
の枝を山のように運ぶ人もいた。大人たちは杖代わりに股木棒杖を持ち歩いていた。セー
タの下につっかえ棒にして休憩するための棒だ。忍棒(にんぼう)と呼んでいた。大量の
荷物を背負うと、一旦下ろすと再度立ち上がるのが大変なので、立って荷物を背負ったま
ま休憩する方が楽だった。その時にセータの下にこの忍棒をつっかえて休んでいた。  
 当時、カヤ場も桑畑も山の奥まで広がっていた。遠い山から大量のカヤや桑の葉を運ぶ
のが大人の仕事だった。女衆も男に負けずに大量のカヤや桑の葉を背負った。それが毎日
の生活の一部だったから、足腰が強くなければやっていられなかった。        

崩れないようにくくるのも山っ子の技だった。 大人の休む姿はかっこよかった。

 ボヤまるき以外でも山へはよく出かけた。山菜やキノコ採り、鳥追い、ウサギ追いなど
など遊びに近いものが多かった。山の稜線まで登り、反対側を見下ろすのは滅多にない事
だったが、それは強烈な印象を心に残した。家の裏から山に登り、どこをどう登ったか忘
れたが稜線に出た。そこから見下ろしたのだから反対側の日尾集落だったと思う。谷底に
何軒もの家が見えた。山の中腹から頂上にかけて段々畑が綺麗に出来ていて、まるで模様
のようだった。稜線から下れば日尾に行けるのだが、子供心に下ったら帰れなくなると本
能的に感じて行かなかった。異郷への憧れみたいなものが芽生えたのを覚えている。  

 一度だけ遭難しそうになったことがあった。観音山に登り、そこから山道伝いで家に帰
ろうとしたことがあった。どの山にも道があったから多少遠くても大丈夫だと思って歩き
出した。当時、鹿や猪は見たことがなかったし、山に獣がいても猟師さんくらいしか興味
を持っていなかった。その時は多分獣道に迷い込んだのだと思う。大石山の手間で道が消
えた。慌てて下に降りようとしたが、藪が酷くて歩けない。崖もあるし、自分が今どこに
いるのかもわからない。あちこち擦り傷を作って歩き回った。暗くなってきた頃、やっと
杉林にたどり着き、そこから山を下りることができた。半べそをかいていたのだが、暗く
なってたどり着いた家では何も言わなかった。山道に迷ったなんて口が裂けても言えなか
った。今思い出しても冷や汗が出るような気分になる、懐かしい思い出だ。      

 山道はどこまでも続いていた。遊び仲間と大勢であちこち出かけて遊んでいた。自分の
家の山に秘密基地のようなものを作っている同級生がいて随分と羨ましかった。三本の立
木に横木を掛け渡し、床のように枝を敷き、カヤで屋根と壁を作った今でいうツリーハウ
スのようなものだった。中には竹で作った弓と篠で作った矢が飾ってあった。矢は鶏の羽
が付けられた立派なものだった。それを見ながら「多分実際にこの矢を撃つことはないの
だろうなあ・・」などと思っていた。                       

 ボヤまるきは仕事だったが、半分山遊びのような感覚で楽しんでいたように思う。昔の
山は子供達にとって遊び場で、仕事場で、教室だった。そこで本当に多くのことを学んだ
ものだった。様々な危険やそれに対処する方法。やっていいこと悪いこと。出来ることと
出来ないこと。それは上級生から下級生へ、兄から弟へと伝えられる山の教えだった。 
 今、山道はなくなり、鹿や猪から畑を守るために柵で畑を囲むようになってしまった。
誰も彼もが山に背を向けて、都会の方を向いている。ほんの五十年前の事なのに、山で遊
んだ時代が懐かしい。はるか遠くの事になってしまった。