山里の記憶251


麦踏み:黒沢和義



2021. 1. 22


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 子供の頃、冬になると必ずやる仕事があった。霜柱が立つ頃だからすごく寒い頃の仕事
で、一日やっても終わるか終わらないかという厳しい仕事だった。麦踏みだ。     
 十月末に種まきをした麦は十一月に芽を出し、十二月には葉が青く見えるくらいに成長
する。一月になると寒い日は霜柱が立つようになる。霜柱が立つようになると麦踏みが必
要になる。麦踏みは子供の仕事と言われていて、兄弟みんな総出で山の畑に行ったものだ
った。吹きさらしの寒い山の畑で黙々と麦を踏むだけの一日。大変だった。      

 麦踏みは麦の成長には欠かせない冬の作業だった。霜柱で土が持ち上げられると麦の根
が浮き上がり、その後の生長が阻害される。それを防ぎ、より強く育つように行う作業で
、踏圧(とうあつ)または鎮圧(ちんあつ)と呼ばれる作業だ。昔は人間の足で踏んだが
今は重いローラーなどで圧を加えるようになっている。               
 その効用は霜柱の害を防ぎ、麦の徒長を防ぎ、根の張りを良くして、耐寒性を高めるこ
と。風による表土の移動防止。生長してからの倒伏を防ぎ、分蘖(ぶんけつ)茎を多く生
じさせ株分かれを促進させることなどなど。冬から春にかけて二・三回実施するところが
多い。ちなみに「麦踏み」は春の季語になっている。                

山の畑には道具を担いで登る。まるで弁慶の七つ道具だ。 振り馬鍬(まんが)は大人が振るのをロープで補佐する危険な作業。

 秋、山の畑はサツマイモや白菜などを作っていて、十月にはその収穫が終わる。畑は乾
燥して硬くなっているので、掘り返し、土を柔らかくしなければならない。大きく掘り返
すムグリという農具は、子供にとっては巨大な農具で使いこなすのは難しかった。全体重
を乗せて固い土に挑むのだが、跳ね返されるばかりだった。大人が全身の体重を乗せてや
っと掘り起こせるくらいの固い土だった。                     
 柔らかそうな場所はマンノウという二本刃の鍬で掘った。秩父の山の畑は石が多く、固
い土なので二本刃のマンノウでないと掘れなかった。もっと土の豊かな場所では三本刃の
マンノウを使っていると思う。農具は場所により形態が変わる。           
 掘った土はまだ土くれが大きく、種まきは出来ない。そこで塊割(くれわり)という短
く太い木を竹竿に付けた農具で土くれを叩いて細かくした。これは簡単な作業だったので
主に子供の仕事だった。土くれを満遍なく叩いて平らにすると畑がきれいになった。  

 畑の端から端にサク縄を張り、縄に合わせて鍬でサクを切る。反対側からも鍬でサクを
切り、真ん中を盛り上げ、平らにして畝を作る。麦の畝幅は六十センチ間隔くらいだった
と思う。畝の中央に溝を作り、そこに種をまく。畝の両側の窪んだところが通路になる。
 山の畑は土が流れないように斜面に対して水平に畝を作る。急斜面の畑だと、下から上
に土を持ち上げる形でサクを引く。貴重な土を少しでも落とさないようにするのが基本だ
った。畑を歩く時も土を下に落とさないように静かに歩いた。            

塊割(くれわり)で土の塊を細かくするのは子供の仕事だった。 サク縄を張って縄に沿って鍬でサクを切る。杭の長さが畝幅になる。

 種まきは慎重にやった。パラパラと二センチ間隔くらいに均等になるように蒔いた。種
まきは、とにかく腰が痛くなる作業で、好きな仕事ではなかった。種がまとまっていたり
すると怒られたものだった。貧乏な家に無駄な種はなかった。            
 種を蒔いた後は鍬で土をそっと寄せて裏面で平らに押した。土が一センチか二センチか
ぶるくらいが発芽に良いと言われていた。種まきは雨が降る前にやるのが良かった。天気
を見ながらの農作業は予定通りにならないことが多かったが、種まきの後に雨が降ると嬉
しかったことを覚えている。山の畑には小麦と大麦を蒔いていたが、子供にはどれがどれ
だかわからなかった。                              

 十一月になると麦は芽を出し、畑に麦の青い筋が見えてくる。芽が出る頃、鳥が種を食
い荒らすことがあったので子供は山の畑で遊べと言われたこともあった。寒かったけれど
、ぼやまるきを兼ねて山の畑周りで遊んだことを覚えている。            
 十二月になると麦はさらに育ち、緑色が濃くなる。この時期、山の畑に行くことはなく
なり、鉄砲祭り(飯田八幡神社の例大祭)のことばかり考えるようになっている。霜が降
りる前に麦踏みをやるのがいいと言われているが、実際は霜柱が立つような寒さになって
からの仕事だった。                               

 一月の終わり頃、寒さがピークを迎える頃、一回目の麦踏みをする。よほどの用事がな
い限り、兄弟全員で山の畑に行って麦踏みをする。                 
 麦踏みは地味な仕事だった。ただひたすら麦の列を足で踏むだけだ。カニ歩きのように
横に一歩ずつ足の幅で移動し、麦を踏み続ける。寒いけれど、急ぐことも出来ず、一歩一
歩麦を踏む。普段は感じない畑の広さを感じた。永遠に終わらないんじゃないか・・と感
じさせるくらい、麦畑は広く見えた。朝、麦を踏み始めた時には絶望的な気分だったが、
昼を過ぎる頃には大分進んで、夕方には終わった。一歩一歩でもやり続ければ終わるんだ
と子供ながらに妙な達成感を覚えたものだった。                  

 昼には母親がたらし焼きと熱いお茶を運んできてくれた。山の畑で食べるたらし焼きと
温かいお茶の旨かったこと。重たいポットを山の畑まで運ばせたことに申し訳ない気持ち
も加わって、特別な昼ごはんだった。                       
 麦の畑は何箇所もあった。何箇所かの山の畑は離れていたので何人かずつ別れて行くこ
ともあった。そんな時は弁当持ちで行くのだが、握り飯を体に巻きつけたり、ポケットに
入れておいたりしたが、冷たい昼ご飯だった。                   

 今よりも昔の方がずっと寒かった。地球温暖化の影響なのだと思うが、最近の冬は寒く
ない。鉄砲祭りは十二月の十五日だったが、昔は足が凍るほど地面が冷たかった。今は普
通の服装で見に行っても寒くない。                        
 山の畑はさらに寒かった。風も強く、吹きさらしの畑で隠れる場所もない。そんな麦畑
で黙々足踏みをするだけという仕事。子供ながらに人生の何たるかを思い知らされるよう
な気分になる仕事だった。麦踏みしながらいろんなことを考えていたような気がする。 

寒くても防寒対策は粗末なものだった。それでも子供はみんな元気だった。 霜柱は好きだった。思い切り蹴飛ばすと氷がキラキラ光って綺麗だった。

 春になると麦は急激に成長し、青々とした畑になる。春の風にそよぐ麦の青い葉はとて
もきれいだった。三十センチほどに育った頃、鍬で土寄せして畝を高くする。これは倒伏
を防ぎ、分蘖を即すための作業だ。大人がお蚕仕事で忙しくなるので、土寄せは子供がや
らされた。真冬の寒い仕事と違って、これは楽しい仕事だった。山にも花が咲き始め、気
分も明るくなってノリノリで鍬を引いたように覚えている。             
 冬から春への変化は劇的だった。コブシの花が咲き、ヤマザクラが咲き、ミツバツツジ
の紫色の花が咲く。山の木が芽吹きのモヤモヤした白から日毎に緑色を濃くして、山笑う
季節となる。この山里の変化は素晴らしいものだ。道端にハナモモが咲き、スイセンの花
がそこかしこで風に揺れる。寒かった冬とは全く違う世界に変わった。        

 麦はズンズンと育ち、穂をはらみ、そして穂が立ち上がる。順調に育った麦畑を見るの
は本当に楽しい。六月にもなると大麦も小麦もノゲという細いとげが穂に立ち上がるので
迂闊に畑に入れなくなる。そして麦秋。七月が麦刈りの季節だ。           
 麦刈りから麦こなしまで家族の一大事で、家族全員がノゲまみれになって麦と格闘した
ものだった。山の畑での刈り取り、セータで背負って家に運ぶ作業、ノゲまみれになる脱
穀、ムシロで毎日出し入れする乾燥作業。どれもこれも家族が食べるためだった。   
 大麦は精米所で押し麦に加工してもらい、白米と一緒に炊いて主食になった。小麦は小
麦粉になって、うどんやたらし焼き、すいとんなどになった。大麦と小麦が無かったら一
家は飢えて死んでいたと思う。そのくらい大切な食料だった。            

 麦刈りや脱穀はまた別の機会に詳細を描いてみたい。麦踏みをやっていたのは子供の頃
だったから、その意味もさほど詳しく知っていた訳ではない。やれと言われてイヤイヤや
っていたに過ぎない。それでも、麦踏みのお陰で理屈ではなく体感したことがあった。そ
れは「どんな大きな仕事でもやり続ければ必ず終わる」という実感だった。これは世の中
に出て途方もなく大きな仕事を前にした時に「な〜に、麦踏みに比べれば」と思う余裕に
もなった。そのくらい麦踏みは地味だけど大きな仕事だった。