山里の記憶260


おこあげ:黒沢和義



2021. 7. 16


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 秩父には大きな家が多い。二階建ての大きな家がいっぱいある。今は多くが空き家にな
っているようだが、大きな二階建ての家は養蚕農家だった証だ。養蚕は秩父地方で古くか
ら盛んに行われてきた。江戸時代から生糸の生産を行っていて、明治時代には養蚕農家の
困窮から秩父事件を起こした事も知られている。                  
 我が家も小さいながら二階建てで、養蚕をやっていた。子供が多かったので貴重な現金
収入になる養蚕は大事な大事な家の仕事だった。蚕が家の大半を占領するような状態で、
人間が小さくなって生活するような有様だったが、誰も文句は言わなかった。     

 養蚕は桑の葉が出る五月から九月の間で行われる。五月に掃き立て、六月下旬に出荷す
る春蚕(はるご)。七月初旬に掃き立て、八月中旬に出荷する夏蚕(なつご)。九月初旬
に掃き立て、10月中旬に出荷する秋蚕(あきご)の三回が普通だったが、桑の葉が多く
採れなかったり病気が出たりするので夏蚕をやらない家もあった。          
 また、秋蚕が外れた時や桑の葉が多く残っている場合は、十月に掃き立て、十一月出荷
の晩秋蚕(ばんしゅうさん)をやる家もあった。晩秋蚕は霜の影響で桑の葉が枯れること
もあり、養蚕では難しい技術が必要な作業だった。晩晩秋蚕(ばんばんしゅうさん)とい
う年五回の記録もあるが、よほど計画的にやらないと出荷するのが難しかったと思う。 

 子供とはいえ、朝食前から山の畑で桑の枝を刈り、セイタで運んでから学校へ行くのが
当たり前だった。蚕は大切な家畜でお蚕(こ)様と呼ばれていた。おをつけて、なおかつ
様までつけるのだからいかに大切に扱わなければならない存在だったか。芋虫みたいで気
持ち悪いなんて言おうもんならゲンコツが飛んでくるくらいだった。         
 我が家の養蚕は春蚕、夏蚕、秋蚕の年三回やっていたように記憶している。多くやる家
では他にも晩秋蚕、晩晩秋蚕と五回の養蚕をやっていた。              

 養蚕で一番忙しいのはおこあげと呼ばれる作業だった。おこあげの日は先生に言って学
校を休んで手伝った。他の子もみんなそうだったから、先生も慣れたもので「ああそうか
頑張りなさい」と言うだけで休ませてくれた。                   
 おこあげは正式には上蔟(じょうぞく)と言い、成熟した蚕をマブシ(蔟)に移す作業
のこと。マブシは蚕が繭を作る場所で、私が手伝っていた頃はボール紙の折りたたみ式の
ものが使われていた。広げると縦三十センチ横五十四センチの大きさで中が十二列十三段
に仕切られた格子状になっていた。このひとマスごとに蚕が入り、繭を作る仕掛けになっ
ていた。                                    

桑の枝は畑に運び、積み重ねておき、冬に燃やして肥料にする。 回転マブシは蚕の移動でギィーっと回転する。

 おこあげの前日にこのマブシを専用の木枠に十段組み上げて回転マブシを作るのが大変
だった。二階の蚕棚の横で組み立てるのだが、マブシが壊れていたり、木枠が歪んでいた
りするのを直しながら組み立てた。組み立てた回転マブシは壁際に並べて立てかけて置い
た。天井から吊るので、天井の釘や吊り金具なども確認した。            
 蚕カゴの上には蚕飼紙(こげえがみ)が敷かれ、その上に桑の枝がいっぱい置かれてい
るが葉はほとんどない。蚕が全て食べてしまっているからだ。この時の蚕は丸々太って体
に透明感が出てきている。黄色味がかって成熟した蚕が、みんな上を向いているのがおか
しいようだった。                                

 おこあげの日は朝から忙しい。蚕カゴを台の上に引っ張り出し、上から目の細かい網を
かける。蚕は上に登る習性があるので、そのまま棚に戻しておくと網の上にみんな登って
くる。そこで網ごと持ち上げて蚕をカゴから容器に移す。              
 容器の蚕を計りで重さを計って、一定の量を回転マブシに移す。横にした回転マブシに
は差し込み板が中央に入れてあり、蚕が下に落ちないようになっている。回転マブシに移
された蚕はそのまま置いておくと自然に自分でマブシの部屋に移動して行くものだった。
 カゴに残った蚕や床に落ちた蚕を拾うのが子供の仕事で、ちょこまかと動き回って左手
に持ったチリトリに蚕を拾って集めていた。集めた蚕は1匹ずつマブシの空いた所に押し
込んだ。                                    

落ちた蚕を拾ってマブシのコマに押し込むのは子供の仕事。 マブシはお蚕様のマンション。一部屋ごとに繭が出来る。

 蚕を移した回転マブシを天井から吊り金具を使って吊り下げる。我が家では二段の回転
マブシを天井から吊っていた。床は板の間だったが蚕カゴの周囲は蚕糞(こぐそ)が落ち
ているので必ずスリッパや上履きを履いていた。スリッパは大人用なのでペタペタして歩
きにくかったが慣れるしかなかった。蚕糞は緑色で、箒で掃いて集めるて捨てるのも子供
の仕事だった。蚕糞は堆肥にならないので畑の隅でも厄介者扱いされていた。     
 蚕が食べた後の桑の枝も集めて畑の隅に積み上げた。これは冬に燃やして灰にして肥料
にした。蚕は綺麗に葉を食べきるので残った枝は綺麗なものだった。         

 天井から吊った回転マブシはしばらくするとギィーッと音を立てて回転する。これは蚕
がマブシの上に移動して重心が変わるからだ。蚕は上に登る習性があり、蚕が上に集まる
と上が重くなり、ぐるりと半回転する。これを何度か繰り返すうちに全体に満遍なく蚕が
行き渡り回転が止まる。見事に一マスに一匹ずつ蚕が納まるのは不思議な感じだった。 
 回転するとその勢いで蚕が床に落ちる。これを拾ってマブシに乗せるのも子供の仕事だ
った。全部の蚕を一度に回転マブシに移せる訳ではなく、まだ桑の葉を食べる未成熟な蚕
もいるので、それは集めて桑の葉をくれてやる。順次成熟するごとに回転マブシに移すよ
うにしていた。                                 

 おこあげの日は目が回るような忙しさで、家中がてんやわんやしていた。朝のうちにお
にぎりを作って置いて、昼はそれを動きながら食べるような有様だった。       
 回転マブシに蚕を移して空になった蚕カゴを片付けるのも大変だった。桑の枝を畑に運
び、蚕飼紙に残った蚕糞をバケツに移し、カゴを外に運び、棚を解体する。父親の指示で
子供が手分けして動きまわる。お蚕の成績次第で学校の給食費や部活の道具費用になるの
だから子供も必死で働いた。現金収入の道はこれしかなかったから、親の言うがままに動
き回った。                                   

 蚕カゴはまとめて川に運び、川の水で洗った。家から川に降りる道があり、背負子で蚕
カゴを十枚くらい重ねて背負い、畑の横を通って川に降りた。川には深場が作ってあって
、そこに蚕カゴを浸した。一枚ずつ川の水でブラシを使って丁寧に洗った。雑に扱ってカ
ゴを壊したりすると後でえらく怒られた。蚕カゴは竹で編んであるので古いものは折れた
りするので慎重に洗った。水で洗ったカゴは水分を含んで重くなり、帰りに急坂を登るの
が大変だったことを覚えている。                         

蚕カゴを背負子で川に運ぶ。急な坂がよく滑る。 川には洗い場が作ってあって、ブラシで丁寧に洗う。

 おこあげは人手がいくらあっても助かるので助っ人を頼むこともあった。知り合いの人
や知らない人が助っ人に来てテキパキと動くのが不思議な感じだった。今から思えば、結
いのようなものだったのだと思うが、子供にはわからなかった。           
 とにかく一気に色々な作業が進むので、疲れて影に隠れて休んだりした。休んでいるの
はすぐにバレて、大声で呼ばれて出て行くのが常だったが特に怒られることはなかった。
子供も大事な作業員なのでうまく煽てられて働かされていた。            

 養蚕はいつ頃までやっていただろうか。多分中学生の頃までだったような気がする。そ
の頃から日本は高度経済成長時期に入り、化学繊維が流通し始めた。丈夫で強いナイロン
やレーヨンなどが市場を席巻し、絹糸の需要が激減した。秩父の養蚕農家も採算の合わな
くなった生糸相場に養蚕を止める家が続出した。                  
 時代の流れは容赦なく山里の農家を襲い、大きな二階建て農家の二階は使われることが
なくなった。土木工事や道路工事に出かける人が増え、農家の生業も様変わりした。我が
家も同様で、父親は土木工事に出かけ、子供達は新聞配達やヤクルト配達のアルバイトを
するようになった。中学生の時に新聞配達をしていて、配っていた朝刊で三島由紀夫が割
腹自殺したニュースを見て驚いた事を覚えている。何より「割腹」の意味がわからず、辞
書で引いて内容を知り「まさか!」と驚いた事が記憶に残っている。         

 おこあげが忙しかったのは間違いないが、家の仕事で学校を休めるというのが嬉しかっ
た。学校が休みになるというのは子供にとって特別な事だった。記憶ではおこあげの日と
八幡様の二日間が学校休みだった。それはそれは特別な一日だった。