山里の記憶
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囲炉裏:黒沢和義
2021. 8. 13
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子供の頃、囲炉裏は家の中心だった。玄関を入ると正面に板の間の囲炉裏端があった。
居間は左側で、上がりはなを上がって障子を開けると八畳の間になっていた。玄関は三和
土(たたき)土間で、硬い土が少しデコボコしていた。
板の間の囲炉裏端は六畳くらいだっただろうか。中央に半間真四角の囲炉裏が切ってあ
り、その中央に自在鉤が下がっていた。土間は台所を通過して裏口まで続いていて、土足
のまま玄関から裏まで通り抜けられるようになっていた。台所仕事をしながら裏にある井
戸に水を汲みに行ったり、裏の菜園に行ったり出来た。
囲炉裏の間には薪部屋が奥にあった。その前の席が父親の席で決まっていた。この席は
囲炉裏の火を統括する席で、その場にいる人間の年長者が座ることになっていた。兄弟だ
けでいる時に自分が座ることもあり、その時は囲炉裏の火燃しを自分でやった。
囲炉裏の火を操ることは子供の夢で、大人の真似をして上手く出来るとドヤ顔になるの
だが、大概は煙を出してばかりで上手くいかず「下手くそ」と言われるのが悔しかった。
焚付けは小学の頃には普通に出来た。ボヤを細い部分、中くらいの部分、太い部分に分
け、焚付けの杉っ葉を置いた上に細い順に山形に重ねてマッチで火を着ける。焚付けに失
敗することはほぼなかった。
問題は煙を出さないようにすることと、炎を一定の高さにすることだった。煙を出さな
いようにするには、燃えている枝の火の勢いと次の枝を足す時間を計算して、強い火の勢
いが次の枝に移るようにしなければならない。勢いに任せて燃えすぎると次の枝に燃え移
らず煙が出てしまう。かと言って、次から次に枝を重ねると炎が高くなりすぎて「下手く
そ」と言われてしまう。この加減が難しく、なかなか思うように火を作ることが出来なか
った。淡々と一定の炎で燃やす父親を見ていると不思議な気がしたものだった。
囲炉裏の灰はワラビや栃の実のアク抜きや消毒に使った。
十能は子供でも手軽に使える重宝な道具だった。
囲炉裏では木材以外のゴミを燃すのはご法度だった。囲炉裏の灰は料理のアク抜きに使
ったり、畑の消毒に使ったりする貴重品だったからだ。ワラビのアク抜きやトチの実のア
ク抜き、こんにゃくのアク抜きに使った。野菜のアブラムシ退治などに灰汁を使ったりし
ていた。紙ゴミやビニールを燃やすと匂いですぐにバレてえらく怒られた。ゴミはカマド
で燃やすものだった。カマドの煙は煙突で外に出るので何を燃やしても何も言われなかっ
た。青竹や篠竹を燃やすのもご法度だった。一度、枯れた竹だから大丈夫だろうと燃やし
ていたら大きな音がして竹が破裂した。囲炉裏端が灰だらけになって掃除が大変だった事
があった。枯れていても割れていない竹は破裂するのを知った事件だった。
囲炉裏には三種の神器があった。十能(じゅうのう)、火箸、火吹き竹の三つだ。十能
は火種やオキを他の場所に運ぶ鉄製の道具で、火鉢の火種や燃えた豆炭などを運ぶのに使
った。子供でも手軽に使えて安全で便利な道具だった。
火箸は鉄製の長い箸で、二本を輪で繋いだもの。これは手が小さく指の力が弱い子供に
は使いこなすのが難しい道具だった。重いし、掴みにくいし苦手だったが、火を扱うには
なくてはならない道具だった。トング形式の火掴みは、その当時にはまだなかったように
思う。重い火箸は持ち上げるだけで大変で、物を掴むのも難しかったことを思い出す。
火吹き竹は六十センチくらいの青竹を切って作った。節を抜き、最後の節だけ残す。最
後の節ギリギリで切り、真ん中に三ミリくらいの穴を開ける。穴が大きいと息が漏れて強
く吹けない。細く強く長い息を消えかけた火に吹きかけて火の勢いを出す道具だ。使い続
けていると先端が焦げてくる。割れたり燃えたりすると作り直す。火の扱いが未熟な子供
にとっては欠かせない囲炉裏の道具だった。
豆炭アンカの豆炭も囲炉裏で火を着けた。
囲炉裏の焼き物は色々あり、焼き方も色々だった。
囲炉裏では様々な焼き物をした。焼く方法は大きく分けて三つあった。一つは熱い灰に
埋めて蒸し焼きにする方法。サツマイモやもろこしまんじゅうなどを灰に埋めて焼いた。
サツマイモは濡れた新聞紙に包んで埋めると満遍なく焼けて美味かった。
台状の鉄器を置いて、その上で焼く方法もあった。柔らかいまんじゅうなどは鉄器で焼
いた。トウモロコシなども鉄器で焼いた記憶がある。
竹串を作って刺して焼く方法もあった。釣った魚などは竹串に刺して囲炉裏で焼いて食
べた。他にも色々なものを串に刺して焼いたが、子供が多かったので取り合いになること
が多くケンカになることもあった。
焼くのではないが、乾燥させる方法もあった。藁束に竹串に刺した魚を突き立てて囲炉
裏の上に吊る「べんけい」というものがあった。我が家は魚釣りなどあまりしなかったの
で少なかったが、近所の家では常に弁慶が下がっている家があった。燻製を作るような形
になるのだが、こうして干した魚は良い出汁になるということだった。
我が家の囲炉裏にはなかったが、囲炉裏の上に火棚と呼ばれる木製の木枠を下げている
家があった。この火棚には色々なものが置けて乾燥させるようになっていた。藁細工の製
品や木工細工の製品を煙でいぶして長持ちさせるために使っていたという。大根の漬物や
野菜などを煙でいぶして燻製のようにすることもあった。
当時はまだガスがなかったので、料理はカマドと囲炉裏が中心で、他には七輪なども使
った。囲炉裏に鍋を吊るして煮物や汁物を作ることが多く、中身はその時々で変わる煮込
み料理ばかりだった。カマドでは大釜でご飯を炊き、大鍋でうどんを茹でたり、サツマイ
モを蒸したりした。粗末な食事だったが、大量に作るので鍋や釜は大きなものばかりだっ
た。七輪では炭でサンマやイワシを焼いた。
囲炉裏にはいつでも鉄瓶が下がっていて、湯を沸かしていた。お茶をいつでも飲めるよ
うになっていて、祖母や母親は休む時にいつもお茶を入れていた。鉄瓶は重かったが、自
在鉤から下ろしたり、水を入れてかけたりするのはよく手伝ったものだった。鉄瓶のお湯
は冬の寒い朝に大活躍した。顔を洗ったり、歯を磨いたりするのに井戸水は冷た過ぎた。
鉄瓶のお湯を少し注ぐだけで気持ちよく使うことが出来た。
夏の夕方「蚊いぶし」の煙を作ることもあった。夕方みんなが家に帰ってくる前に、家
の中に入り込んだ蚊を追い出すための煙出しで、火を燃やすのではなく、煙だけを出すた
めに火を焚いた。生木や青葉などを囲炉裏の火にくべ、勢いよく煙を出した。家中に煙を
行き渡らせるのは大変で、涙を流しながら煙を出したものだった。蚊は煙だけで全部外に
出るわけではなく、寝る前に蚊帳を吊るのが毎日の仕事だった。蚊帳の裾からさっと入る
技は親から教えてもらって、子供全員が身につけていた。蚊帳に入ってしまった蚊は追い
かけて潰した。そうしないと夜中に「プ〜〜ン・・」という羽音で寝られなくなってしま
うからだ。
夏の夕方、蚊いぶしの煙を焚くのは子供の仕事だった。
べんけいは魚の燻製保存作り。煙の効用をよく知っていた。
冬に寝る時に使う豆炭アンカの豆炭も囲炉裏で燃やして作った。囲炉裏の火に乗せるよ
うに豆炭を置き、半分くらい赤くなったら十能でアンカに入れる。蓋をしてネルの巾着袋
に入れれば暖かな豆炭アンカが出来上がる。布団に入れておけば朝まで暖かい。暖かいと
いうより熱いくらいで足に触れていると火傷しそうだった。
豆炭アンカが好きな人と湯たんぽが好きな人に分かれたが、私は豆炭アンカ派だった。
姉は湯たんぽ派で、朝起きて湯たんぽのお湯が使えるのがいいと言っていた。
囲炉裏はプロパンガスが来て、水道が出来て、台所が近代化するのに連れて使わなくな
り、薪ストーブが設置されてその役目を終えた。薪ストーブの出現で囲炉裏より格段に安
全になり、家の中に煙が充満することもなくなった。近代化という時代の流れは山里の台
所を激変させた。その一番の変化は囲炉裏がなくなったことだと思う。
時代の必然だったし、今更惜しむのも馬鹿らしいが、囲炉裏がなくなって失ったものも
多い。家族の立ち位置が安定していたこと。座る場所も暗黙に決まっていて秩序がはっき
りしていたものがなくなった。火を操る技術がなくなったこと。火の周りで遊ぶ楽しさが
なくなったこと。火を見つめる安寧の時間がなくなったこと。その他いろいろ。
大鍋で作ったづりあげうどんをみんなでワイワイ言いながら食べたこと。もろこしまん
じゅうを焼いてマッコでコンコンと灰を落としたこと。風向きで煙が回り、逃げるように
動き回ったこと。ホウロクにラードを落とし、たらし焼きを作って食べたこと。子供時代
の思い出は囲炉裏と共にあった。あの風景をもう見ることは出来ない。