山里の記憶
29
ログハウス建築:杉田宗助さん
2008. 8. 9
絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。
横瀬町にある正丸オートキャンプ場は瀬音の森のイベントで何度も使わせてもらって
いるキャンプ場だ。オーナーの杉田宗助さん(79歳)は3階建てのログハウスを自分
の手で6年かけて作った人だ。他にも、木工家として作品を作り、彫刻家として仏像や
木像を彫り、県の博物館に依頼されて俵を編んだり、おかめ笹でザルを編んだりもする
。ケヤキの丸太で臼を作っていたこともある。宗助さんには炭焼き窯作りを教えてもら
い、瀬音の森の事業として実際に作ったが、残念ながら天井が落ちてしまい、炭焼きを
することは出来なかった。最近ではモーターパラグライダーで秩父の空を飛び回ってい
る。そんな秩父のスーパーおじいちゃんとも言える宗助さんに、3階建てログハウスを
作るきっかけや建築の苦労話を聞いた。
ログハウスの建っている正丸オートキャンプ場入り口の看板。
キャンプ場の管理棟になっている三階建てログハウス。
ログハウス作りのきっかけはテレビドラマ『北の国から』だった。テレビで見ている
うちに何となく自分でも出来るような気がしたという。木工家として木材加工には精通
していたから自然にログハウスに興味を持つようになった。テレビドラマでやっている
場所を見たくて北海道の富良野まで出かけて行った。奥さんのお父さんが北大演習林の
官舎の管理人をやっていて、お姉さんが現地にいたので案内してくれた。
ラベンダーの丘に建っているログハウスはカナダから材木を運んで作ったもので、と
ても立派なログハウスだった。お姉さんが連れて行ってくれたロケ現場の『五郎さんの
家』は「こんなもんか」という貧弱なものだった。3間半の細い丸太で組んであった。
自分ならもっと立派なものが出来ると思った。25年前、54歳の時だった。
その「思い」が具体的に動き出したのは、ゴルフ場の代替地として、この山林が手に
入ったことからだった。今はオートキャンプ場として整備されているが、当時は単なる
杉林だった。宗助さんは最初にこの場所を見た時から「ここにログハウスを建てよう」
と思った。ログ材料の杉はいくらでもある。しかし、橋がない。まずは橋造りから第一
歩が始まった。土木工事会社の友人に助けてもらい、車が通れる橋を作ったところから
夢への挑戦が始まった。
60歳の夏だった。日光の高原にある「アランマッキーログハウススクール」に10
日間泊まり込みで、ログハウス作りのノウハウを勉強した。アランマッキーは当時最先
端のログハウスビルダーとして大人気の人だった。スクールでは主にスクライバーの使
い方を勉強した。材料が杉という事は決まっていたので、他の人と違い勉強内容も絞ら
れていた。木工家としての知識や技術の裏打ちもスクールを10日で終わらせることが
出来た要因だった。アランマッキーは「材料が杉ならノッチを組むのではなく、ピーセ
ンピースがいい」と言ってくれた。これは宗助さんの考えと一致するものだった。
スクールから帰り、まずやったことはミニチュア作りだった。出来上がりのイメージ
と作業進行のイメージを掴むために、ログビルダーは設計図ではなくミニチュア作りを
推奨する。ミニチュアとはいえ、実際にログで組むのだから、真剣に作る。そのままサ
イズを拡大すれば実際のログハウスになるくらい真剣に作る。宗助さんはお孫さんと楽
しみながら真剣にミニチュアを作ったという。この時作ったミニチュアは今でも現ログ
ハウスに保管されている。このミニチュア作りでどのくらいの大きさ、太さの杉が何本
必要になるかが分かる。数えてみると膨大な数の杉が必要になることが分かった。使う
杉は全て皮をむかなければならない。
ログハウスの前でいろいろ話聞かせてくれた宗助さん。
建築前に作ったミニチュアのログハウス。
杉の皮をむくために宗助さんが取った方法は画期的なものだった。杉の木が立ったま
まの状態で皮をむくことだった。根回りをチェーンソーで薄く切り、皮を持って上にま
くると皮が簡単にむける。9月から10月までこの作業で皮をむいた。皮をむかれた杉
は枯れるが、枯れる前に樹幹の水分を上で生きている枝が吸い取ってくれる。立ったま
ま含水率が低くなり、乾燥が進むことになって一石二鳥だった。こうして枯らした杉は
重さが半分以下になっていた。立ち枯れさせた杉を、良い杉から順番に必要な分だけ切
って使った。倒して一箇所に積んで、必要な分だけ使う。大きく重い丸太を動かすには
ユンボやユニックの力が欠かせなかった。
ログハウス建築の第一歩はラウンドノッチで組み上げた小さな家だった。これは当初
お風呂場にしようと現駐車場に組み上げたもので、今はキャンプ場のトイレになってい
る建物だ。チェーンソー一台で刻んだとは思えない正確なノッチ加工が素晴らしい建物
だ。本格的なログハウスを組む前に、この小さいログハウスを作った意味は大きかった
。手順や加工方法を確認するための試験的な意味もあった。実際にラウンドノッチで組
んでみて、その問題点を確認し、本番はピーセンピースでやろうと決めた。
次に取り組んだのが、現管理棟の3階建てログハウスだった。この巨大なログハウス
は全て自分の山の杉を使って作ることにした。工法はピーセンピース工法。ピーセンピ
ース工法とは、柱や梁に丸太を使った木造軸組構法、いわゆる在来工法で、柱に溝をつ
けて柱と柱の間にログ(フィラーログ)を落とし込んで壁面を構成する工法だ。様々な工
法を検討したが、材料が杉であること、一人で加工する時間などを考えてこの工法にし
た。結果的にはこの工法がベストだったと杉田さんはいう。
ピーセンピースという工法は日本の風土に合うものだった。雨の多い日本では屋根を
早く葺けるという大きな利点があった。しかし、半端でない大きさのログハウスだった
から、そこまでの工程は大変だった。杉を切り、ユニックで運び、加工して組み上げる
。1日に5本も動かせれば良い方だった。このログハウスは最初は二階建てだった。今
の一階部分は床下で、そこにユンボや工事車両を格納していたのだ。雨対策からも屋根
を早く葺くことが必要だった。
その屋根葺きが最大の難関だったと宗助さんが思い出しながら話してくれた。屋根の
大きさは、片面縦8メートル、横8、5メートルの68平方メートル。トタン板の長さ
は8メートルで、幅は90センチ。このトタン板を全部で22枚張らなければならない
。屋根は金勾配(かねこうばい)という角度45度の急勾配。不安定な足場に登りトタ
ン板を張る。冬の寒い日に連日緊張の作業が続いた。トタン板はユニックのアームに4
メートルのヒノキ角柱を固定し、先に付けた滑車を使って屋根に上げた。ユニックがな
ければ出来ない作業だった。屋根が出来上がれば、雨の心配なく壁の工事にかかること
ができる。文字通り、屋根の工事が山だった。出来上がった屋根はブルーのトタン板が
まぶしい巨大なものだった。
屋根が出来上がり、壁に組み込むログを加工する日々が続いた。何本もの杉を切り刻
み、組み上げる。杉は良い木から順番に伐り、全部で200本くらい使った。曲がった
木は残したのだが、あれから何十年も過ぎた今、曲がった木も真っ直ぐに育っている。
自然の修正力はすごいものだ、と宗助さんは感心する。
宗助さんがひときわ気に入っている柱がある。建物正面の右下に据えた巨大な曲がり
杉だ。倉尾(くらお)の山奥で見つけた根曲がり杉。山の神の裏に生えていたその杉は
、両側を巨大な岩に挟まれた狭い場所に生えていた。伐り出して、年輪を数えたら、ゆ
うに300年を超えていた。根が10メートルくらいあって、その張りも見事だった。
幹はシンボル柱に加工し、根はテーブルの足や上がりかまちに加工して使った。
ラウンドノッチで組み上げたログハウスのトイレ。
新しく作ったロフト付きログハウスコテージ。
こうしてログハウスを作りながら、水源を探した。裏の山の奥に石灰岩の間から湧き
出している水を見つけ、ホースでタンクに落として使うことにした。石灰岩からの湧水
はどんなに雨が降っても濁ることはなく、日照りでも渇水することがなかった。温度も
一定していて、ここで使うには最適だった。
電気は橋の向こう側までは引いてあった。そこから先は自分で引かなければならなか
った。専門の工事を頼み、こちら側に電気を引いた。
二階三階が出来上がってから一階部分を作った。今見ても後から作ったとは思えない
一階部分の出来上がりになっていて素晴らしい。ログハウスの完成は建築開始から6年
後、宗助さん67歳の時だった。「まだ出来上がっちゃあいねえんだいね・・」と宗助
さんは言うが、よくこれだけの建物を自分一人で作り上げたものだ。その知識と技術に
は驚嘆するほかない。