山里の記憶
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小正月のハナつくり:田本安治郎さん
2009. 1. 14
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1月14日、小鹿野町藤倉の田本安治郎(たもと・やすじろう)さん(83歳)を訪
ねた。小正月のハナつくりを見せてもらう為だった。安治郎さんの家は八谷(やがい)
耕地にある二百年以上続く旧家だ。小正月には様々なモノヅクリが行われるが、中でも
ハナつくりは珍しい。オッカドやマメブチの木を削ってハナを作り、神棚や株木(かぼ
ぎ)に飾り付ける。豊作を祈念するアワボやヒエボに類似する作り物で、この小正月の
ハナを作る人を探していて、やっと安治郎さんに辿り着き、今回の取材が実現した。小
正月のモノヅクリは前日に行われるので今日の取材となった。
山深い八谷(やがい)耕地に建つ安治郎さんの家。二百年以上の旧家。
小正月のモノヅクリをする道具達。よく研いである。
安治郎さんの家に着くと、庭先にムシロを広げて、すでにモノヅクリを始めていた。
挨拶をして、横でモノヅクリの様子を見させてもらう。材料は正月の2日に明けの方角
(恵方)の山から伐ってきたオッカド(ヌルデ)、マメブチ(キブシ)、ホウノキなど
の木。2〜3センチの太さで、節が無く真っ直ぐな木が使われる。
安治郎さんのモノヅクリはオッカドを使って行われていた。長さ60センチの刀を4
本。太く短いオッカドの丸太を3本重ねてオッカドの皮のヒモで結んだタワラ。皮をむ
いたオッカドの先を4つに割り、繭玉を挟むケエカキボウ(粥かき棒)2本。孕み箸(
はらみばし)4組(家族分、歳神様分、恵比寿様分)。マナバシ(繭玉作りに使う専用
の箸)、火箸(地炉で使う箸)などが出来上がって、箕(み)の上に置かれていた。
横に座って、刀を作らせてもらった。柄の部分を残して、切り出しでオッカドの皮を
むく。切り出しが良く研いであるので気持ちよく切れる。皮がすいすいとむけて、すぐ
に刀は出来上がった。調子に乗って今度は孕み箸を作る。オッカドを割ってナタで削っ
て中央が太い箸を二本作り、オッカドの皮のヒモで結ぶ。なかなか良い出来上がりだ。
いよいよハナつくりに挑戦する。安治郎さんに実演してもらい、要領は分かったが、
自分でやってみるとなかなか上手くいかない。最初のハナはどうも納得いかない出来上
がりになってしまった。2本目は多少上手くできたかな・・という感じ。
2本のハナは竹の柄に刺して出来上がりとなる。竹の柄は正月7日に割って作る。熱
して曲げた柄を竹に刺し、ヒモで縛り付けて一晩置いて曲げ癖をつける。先を尖らせて
あるのでハナの芯に楽に差し込めるようになっている。2本で一対の作り物だ。出来上
がったハナは壁に吊して乾燥させる。板壁にかけられた真っ白なハナが実にきれいだ。
材料をマメブチ(キブシ)に替えて二個目のハナに挑戦する。このハナは『カキハナ
』とも『削り花』とも呼ばれるが、田本家では単に『ハナ』と呼んでいる。動作は引く
形で作るので『カキハナ』が名称としては正しいように思う。道具の名前をハナカキと
言うのもそれに由来するのだと思う。先端の鈎で引っかけるようにして引いて削る。引
いて使う点でこの道具は『鎌』の一種になると思う。
マメブチはオッカドよりも木理(きめ)が細かく、きれいなハナが引ける。色自体は
生成の黄色みを帯びた色なのだが、削ったハナの線がなめらかでとてもきれいだ。長い
材料だったので出来るかどうか心配だったのだが、気持ちよく削れて、とてもきれいな
ハナが出来上がった。出来上がった時は何とも言えない達成感があった。
しかし、息を止めて一気に引く動作を繰り返すのは大変な力が必要だった。安治郎さ
んは何気なくサッサッと引くのだが、私は力を込めて一定に引くだけで額から汗が噴き
出す有り様だった。途中で手を止めるとそこでハナが切れてしまうし、段差があっても
切れてしまう。長くきれいな線を引くのは、見た目以上に大変な力が必要だった。
大汗をかいて暑くなり、ネックウオーマーやセーターを脱ぎ、頭にタオルを巻いて作
業を続けた。今年一番という寒い朝に、まさか汗をかくなんて思いもしないことだった
が、夢中になってハナ作りに没頭していた。出来上がったハナはじつに見事だった。自
分で作ったとは思えないような出来上がりで、安治郎さんも誉めてくれた。
「初めてで、これだけ引ける人はなかなかいないよぉ、大したもんだいねえ」
竹の柄は曲げてヒモで縛って一晩かけて形を整える。
ハナつくりの実演。オッカドを削ってハナを作る安治郎さん。
二人で小さいハナを作る。小さいハナは氏神様とお墓に供えるためのもの。出来上が
ったハナを持って氏神様に向かう。田本家の氏神様は集落の上(かみ)の杉林にある。
文久元年に五代前のおじいさんが建てたもので「石上大明神」として祀られている。
二人で並んでハナを供え、二礼二拍手一拝の参拝を済ませる。周囲は鬱蒼とした杉林
で、氏神様の周りだけ太いヒノキで囲まれている。昔の街道だったという細い山道を歩
いて帰りながら安治郎さんの話を聞いた。
家例の全てはおじいさんから教わった。昭和35年、83歳で亡くなった賀名平(か
なへい)さんが安治郎さんに田本家の家例を伝えた。素晴らしい家例だが、後には続か
ないだろうという。小正月の行事そのものが豊作への祈願なのだから、農業が廃れてい
く時代に家例だけを続ける意味はない。会社勤めの人には小正月は関係ない。時代は変
わった。今こうして家例を続けてくれていることに感謝しなくてはならない。
家に帰ると奥さんの八千子(やちこ)さんが繭玉を作って株木(かぼぎ)に飾るとこ
ろだった。繭玉を作るのは八千子さんの仕事で、安治郎さんのモノヅクリと合わせて小
正月の準備が進んでいる。田本家の繭玉はうるち米で作られる。丸い玉、繭型、繭カゴ
、つがいの鳥、立ち臼などが作られていた。株木は梅の木を使っていた。
今日は娘さんも来ていて、二人で飾り付けをしていた。安治郎さんが作ったハナもこ
の株木に飾られた。繭玉は株木の他に歳神様に12個飾り、神棚の神様に3個ずつ供え
る決まりになっている。昔は門松を立てていたのでそこにも飾ったが、今は松が採れな
くなったので門松は立てなくなった。従って繭玉も外には飾らない。
繭玉を株木(カボギ)に飾り付ける八千子さん。
炬燵でいろいろな話を聞かせてくれた八千子さん。
氏神様で体が冷え切ってしまったので、炬燵に入って八千子さんが作ってくれたけん
ちん汁をご馳走になりながら話を聞いた。10種類の野菜が入った美味しく温かいけん
ちん汁で、冷え切った体が芯から暖まりとても有り難かった。
八千子さんは山向こうの河原沢(かわらさわ)の生まれで、24歳の時に嫁に来た。
上隣の家が田本家と親戚で、中に立つ人がいて安治郎さんとお見合いをした。
「お見合い一回きりしか顔を見ないで嫁に来たんだいねえ。ほんとに堅い人だったよ」
「お父さんはほんとに堅い人でねえ、堅いからこそこうやって続いて来たんだいねえ」
八千子さんの明るい声が響く。秩父で『堅い人』というのは最高の賛辞だ。
八千子さんは当時珍しかったトラックで嫁に来た。知り合いが農協に勤めていて、特
別に農協のトラックを借りることが出来た。今と違い、狭い道でトラックが走るのも大
変だったそうだ。昭和30年、安治郎さん32歳の時のことだった。
当時、山里での暮らしは食べるための仕事が主だった。山はどこも頂上近くまで耕さ
れ、30分以上かけて畑に通う人もたくさんいた。馬を飼っている人は楽だったが、ほ
とんどの人は自分の背中で荷物を運ぶしかなかった。桑も麦も小豆も野菜も道具も肥料
も背板(せいた=しょいこ)で運んだ。
中でも麦は重要だった。5人家族なら5石の麦が必要だとされていた。養蚕が盛んだ
ったため、養蚕の裏作にあたる麦の栽培が奨励された。7月に刈り入れた大麦も小麦も
水車で粉(こな)した。水車は八谷耕地と富田耕地の共同のものが上流にあった。月に
一度使える日が決められていて、その日は朝から夜まで水車で麦を粉した。夜遅くに提
灯や懐中電灯を持って、粉した麦を取りに水車小屋に行くのが大変だった。狭く暗い山
道はとても怖かったそうだ。
養蚕もやった、椎茸栽培もやった、炭焼きもやった。頑張って働いて3人の子供を育
て上げた。今は用事があるときに帰ってくるくらいだが、健康に恵まれてみんな元気に
働いている。親も大変だったが、子供も大変だった。次男は秩父の農高まで自転車で通
った。バイクの免許を取るまでの約一年半、片道約15キロを毎日自転車で通った。
みんな頑張って生きていた。
話はまだまだ続きそうだったが、小正月の準備はまだ終わっていない。すっかりお邪
魔してしまったことを詫び、お土産に頂いた干し柿と自分で作ったハナを持って帰路に
着いた。お二人の見送りを受け、恐縮してしまった。