山里の記憶
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紙漉きの話:神原いつ子さん
2009. 5. 23
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以前から紙漉きの取材をしたいと思っていた。東秩父村に名人がいるという紹介をされ
ていたのだが、出来れば秩父郡内で紙漉きの取材が出来ればと思っていた。そんな折り、
4月の原画展を見に来た人が、小鹿野で紙漉きをやっている人を3人知っているという。
聞くと、三田川中学の卒業証書を生徒が紙漉きをして作るのを、その方たちが指導してい
るのだそうだ。さっそく紹介してもらった一人が、今日訪問する神原(かみはら)いつ子
さん(84歳)だった。いつ子さんの家は小鹿野町藤倉の大石津(おおしず)にあった。
連絡してから伺ったのだが、急な訪問にも、いつ子さんは快く迎え入れてくれた。
大石津(おおしず)のバス停は、中に座って待てるようになっている。
バス停ほど近くのいつ子さんの家。けんがいの松が素晴らしい。
挨拶をしてコタツに入り、お茶を飲みながら色々な話をした。いつ子さんの話では、も
う50年くらい前に紙漉きをやることはなくなり、道具は全て三田川中学に寄付してしま
った。今は卒業証書の制作時にだけ技術指導をしている。今、紙漉きを自宅でしている人
はいない。材料にカゾ(コウゾ)を使うのだが、カゾが無くなっている。近くに住む人が
少し育てているので、卒業証書分はそれを使っている。矢継ぎ早にそんな事を話してくれ
、せっかく来てくれたのに何も見せてやることが出来ないと申し訳なさそうに言った。
やはり、今紙漉きをしている人はいなかった。気を取り直して、いつ子さんに昔の紙漉
きの話を聞いた。いつ子さんは18歳くらいから紙漉きをやっていた。嫁に来たのが20
歳の時だったが、嫁に来ても紙漉きは続けた。昔は自分の家で使う紙は自分で漉いたもの
だった。紙は障子紙とおかいこ紙を作った。おかいこ紙は蚕飼紙(こげえがみ)と言って
、養蚕には欠かせなかった。養蚕の始まる4月に合わせて3月から一ヶ月くらいかけて紙
漉きをするのが毎年の事だった。
ご主人の繁之(しげゆき)さん(90歳)が昔漉いた紙を出して見せてくれた。白い障
子紙と黒皮が混じったコゲエガミだった。あたたかく懐かしい手触りだった。昔は私の家
でも紙漉きをしていた。家族総出でカゾの皮むきをしたものだった。蒸したカゾの匂いや
ヌルリとした感触を思い出す。
紙漉きの資料をいろいろ出して、説明してくれるいつ子さん。
繁之(しげゆき)さんが、昔漉いた紙を出して見せてくれた。
材料のカゾは畑の畦に植えるのが一般的だった。カゾのために畑を使う事はなく、畑の
端に植えた。畑の端は肥やしが多いので大きく育った。寒のうちに一年かけて育ったカゾ
の枝を刈り、束にして背板で運び下ろす。カゾの枝は長さが3メートルくらいあり、40
センチくらいの束にして縦に背板にくくる。これだけの長さの束を背負い下ろすのも難儀
で、急坂では前を向いて歩くと道の上の木に引っかかるので、後ろ向きに歩いて降りて来
た。いつ子さんは「そりゃあ難儀だったけど、毎年のことで慣れてるから、せやあねえも
んだったよ」と笑う。
桃の節句が終わる頃カゾの皮むきをする。集落には共有の大きなカマドと鍋があり、交
代で使った。二尺の大鍋に湯を沸かし、竹のスノコを敷き、カゾを大きな束にしたものを
立てる。これも集落共有の桶をカゾの上にかぶせて1時間から1時間半ほど蒸す。
蒸し上がったカゾに大量の水をかけて冷ます。こうすると皮がむきやすくなる。子供も
一緒になって家族総出でカゾの皮をむく。カゾの皮むきは、年に一度のお祭り騒ぎで、多
いときは夜中までかかってカゾの皮をむいたものだった。
むいた皮は束にして干して乾かして保管した。皮をむいたあとの芯の木は束にして積み
上げ、囲炉裏やカマドの焚き付けに使った。カラカラに乾いたカゾはよく燃えて、いい焚
きつけになった。子供らは、積み上げられた真っ白なカゾの中からまっすぐなものを選ん
で刀の代わりにしてチャンバラごっこをやったものだった。
束ねて干したカゾ皮は、一晩川の水に浸けてふやかして馬篭(大きなカゴ)で家に運び
、一枚ずつ削り台で黒い皮をむいた。小さい包丁のような形の小刀で丁寧に皮をむいたも
のは、障子紙の材料になった。この作業はカゾ引きといい、子供たちもやらされたものだ
った。この材料を川の水に浸け、干して、浸けて干してを繰り返し、アクを取った。
コゲエガミの材料は悪いカゾの皮を使った。川の石の上で叩いたり、家に運んで臼で突
いたりして黒い皮を取るのだが、多少の黒い皮は残っても気にしなかった。ただ、ここで
よく叩いておかないときれいに漉けなかった。
4月にはいると木灰を使って灰汁を作った。小さい桶の底に杉っ葉を詰め、その上に木
灰を入れて、ぬるま湯を少しずつ注ぐと桶の下から灰汁が出てくる。この灰汁を加えた湯
でヒキカゾを大鍋で煮た。焦げ付かないようにかき回しながら2時間ほど煮ると、ヒキカ
ゾは繊維がほぐれて柔らかくなってくる。
煮えたヒキカゾを桶で川に運び、サラシ篭に入れて川水に晒す。晒しながら少しずつ取
り出し、残った黒皮を取り除き、きれいにする。ふやかし、絞りを繰り返してアクを抜く
。アクが少し残っていた方が丈夫な紙が漉けるというが、その感覚は実際にやっていた人
にしか分からない。
昼間水に晒したヒキカゾを、夜に叩く。大きなヒノキの板で作った叩き台にヒキカゾを
乗せ、二人が両手に持った叩き棒で両側から調子を合わせながら交互に叩く。叩くとカゾ
は広がるので、板で押し返して再度叩く。障子紙の場合は6回から10回押し返す。コゲ
エガミは5回も叩けば充分だった。ヒキカゾ二貫目(7キロ)を叩くのに1時間くらいか
かった。寒い時期の夜の作業は大変だった。
紙漉きの前にタモの糊を作らなければならなかった。乾燥したトロロアオイの根を臼で
突き、粉状にしたものを水で溶いてタモ袋に入れて紙漉きの舟に吊しておく。紙を漉く時
にこの袋を絞って糊状の液を出すためだ。この糊状の液をノロなどと言った。これがつな
ぎになって、漉いた紙が一枚一枚はがれるようになる紙漉きの必需品だった。
いよいよ紙漉きだ。舟に七分目ほどの水を入れ、材料のカゾを入れてよく撹拌する。切
り棒とかガブガブという木枠を使い、ノロを絞り出しながら繊維を切るように全体を撹拌
する。全体がなじんだところで、簀枠(スタガ)に簀(ス)をはさみ、舟の中の液を縦に
薄くすくい、均一にゆすって、手前にはく(捨てる)。三回すくって最後は向こう側に放
って水切りすると、ちょうど紙が四角になる。下からすくうとフクロ(気泡)が出来るの
で平らな紙にならなくなる。液は必ず上からすくうようにする。
簀枠のまま、たて板に立てかけて水分を流す。立てかけると簀の水がサーっと流れる。
その間に次の紙を漉く。立てかけて、ある程度水が切れたら簀を外し、右側のスキダメ(
カンダ板)に重ねていく。重ねる際に後で剥がしやすくするために一枚毎にミゴ(稲の芯
)をはさんでおく。こうして重ねたカンダを半日から一日乾かして、一枚一枚剥がしなが
ら大きな板に貼って乾かす。
紙は裏表があるが、板に貼った側がツルツルの紙表になり、反対側が紙裏になる。白い
障子紙を先に漉いて、コゲエガミは後で漉くのが常だった。漉いたコゲエガミは板を並べ
て、大きな正方形になるようにつないで貼る。縦に4枚を2段貼り横に2枚貼ると正方形
になる。この大きさがちょうど蚕カゴにすっぽり収まる大きさになる。つなぎ合わせるこ
とからツギガミとも言われる。紙すきは天気の良い日を選んで行われ、一日中休む時間も
なかったそうだ。
いつ子さんが漉いた紙。左がコゲエガミ、右の白いのが障子紙。
昔の話をいろいろ聞かせてくれたいつ子さん。勉強になりました。
当時紙すきはどこの家でもやっていた。カマドや桶は共用だったため、それぞれの分を
交代でやっていが、叩いたりするのは自分ちの分だけやった。コゲエガミを蚕の掃き立て
で使うため、4月の春蚕(はるご)前に、寝る間も惜しんで紙すきをやったものだった。
3月はまだ水も冷たく、川の水を使う作業はつらかったが、みんなで楽しみながらやった
ものだった。カゾの皮を売ったこともある。余ったカゾの皮を小川町などに出荷して、正
月を越せるくらいの値になる事もあった。
いつ子さんは地区で一番最後まで紙すきをやっていた。33歳までやっていたそうだ。
「自分ちで使う分は自分ちでこせえたもんだった」「寝る間もねえくれえ忙しかったけど
、それが普通だったんだいねえ」「あたしが最後までやってたから、余所んちの分もやる
ことが多かったいねえ・・・」
養蚕が何ともの生活で、養蚕に欠かせないコゲエガミ作り。毎年正月を迎える前に新し
く貼りなおす障子紙作り。生活に欠かせなかった紙すきの技。繁之(しげゆき)さんが見
せてくれた手漉き和紙の強さとあたたかさ。これだけの紙を漉く技が普通に存在したとい
う事実。今が豊かなのか、昔が豊かだったのか、考えさせられる取材だった。