山里の記憶
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棚田を守る:平沼稲茂(いねしげ)さん
2009. 5. 31
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秩父郡横瀬町の苅米(かるごめ)地区には鎌倉時代から開かれたという棚田がある。寺
坂棚田と呼ばれていて、広さは5、2ヘクタールあり、区画数は300を超える。この寺
坂棚田でずっと米作りを続けてきたのが、今回取材した平沼稲茂(ひらぬま・いねしげ)
さん(85歳)だ。今でこそ都市住民も巻き込んで棚田保全活動が盛んだが、以前の寺坂
棚田は耕作放棄地や減反政策による畑地化した場所がほとんどで、稲茂さんの田んぼは草
の海の中に取り残された池みたいなものだった。一番ひどい時はこの広い棚田で2軒しか
米作りをしていなかった時期もあった。
鎌倉時代から開かれていた寺坂棚田。大きな桑の木が立っている。
平成13年に開校した寺坂棚田学校の看板。毎年大勢の参加者がある。
そんな寺坂棚田に変化の兆しが見えたのは平成13年のことだった。埼玉県から「彩の
国グリーンツーリズム育成事業」を導入し、地域活性化を計ろうという話が持ち上がった
のだ。地区の人々が集まり、議論を重ねた結果、鎌倉時代からの文化遺産である棚田を復
活させ、併せて都市住民との交流を図ろうという事になった。
どういう形にするか議論を重ね、最終的に「寺坂棚田学校」を開校し、当時話題だった
古代米を植えようということになった。稲茂さんも指導員として参加することになった。
校長になった中孝義(なか・たかよし)さんを中心に、役場や農林振興センターに協力し
てもらい、参加者募集をした。どのくらい集まるか心配だったが、初年度は27名の参加
があり、二年目には58名に増えた。時代の風が棚田に向かって吹いてきた。
当時の棚田は減反という国の政策もあり、田から畑へと姿を変え、中には桑畑や栗林に
なっている場所もあった。一度畑になった場所を田んぼに戻すのは大変なことだ。木を切
り倒し、根を掘り出し、石を拾って耕耘する。水を張ってもネズミやモグラの穴が残って
いて、水が消えてしまう。3年続けてやっと田んぼになると言われているくらいだから、
学校開校までの地元の準備は大変だった。地元から20人以上の農家の人が指導員として
参加した。稲茂さんもそのうちの一人だ。
棚田学校の年間スケジュールは3月の開校式から始まって、12月の収穫祭まで年間で
10数回の作業プログラムが組まれている。作業日は土、日、祭日と決まっている。
・3月末:耕耘作業、地元で実施する。
・3月末:説明会、畦道補修などの作業。
・4月末:掘り普請(用水路整備)、畦道の草刈り。
・5月中旬:代かき(一部地元で実施する)、施肥(有機肥料)
・5月末:田植え、終了時に赤飯・豚汁の提供。
・6月中旬:田の草取り、畦道の草刈り。
・7月初旬:田の草取り、畦道の草刈り。
・7月下旬:苅米地区のお祭りに参加して、地元の人々と交流する。
・8月初旬:スズメ除けの網をかける。
・9月上旬:はざ用の竹切り、田の水切り。
・9月下旬:稲刈り、はざ掛け、網かけ。
・10月中旬:脱穀、もみすり、精米。
・12月初旬:収穫祭(餅つき。参加日数に応じて収穫した米の配布を行う。)
指導員は自分の田んぼの世話以外にこれだけの作業を指導・監督しなければならない。
5月31日、棚田学校の田植えの日に取材に行った。開会式を待つ時間に前校長の中さ
んから色々話を聞くことが出来た。今日は80人以上の参加者と25人の指導員で田植え
をする。毎日新聞が取材に来る予定で、午前中で作業を終え、昼は赤飯と豚汁の食事会に
なるとのこと。空模様が心配だが、予定通り出来るだろうと話してくれた。
稲茂さんのことを聞いてみた。
「タバコ屋のイネちゃんって呼んでたんだけど、研究熱心で、米作りにはうるさい人だい
ねえ。名前が稲茂なんだから、稲を作るために生まれてきたんだってよく笑ったいねえ」
「無口だけど、お酒を飲むと朗らかになる人だいねえ。足が軽くって、仕事が終わった後
の片付けなんかをキチンとやる人だいねえ」
集合時間になると大勢の参加者が集まって、田植えの説明が始まった。
指導員が先に立ち、3カ所に分かれて田植えが始まった。
棚田学校の生徒が集まり、開会式の時間になった。老若男女様々な人が集まっている。
慣れている人も多そうで、ゴム足袋を履いたりと足ごしらえもしっかりしている。代表か
ら挨拶があり、作業の説明が行われ、3つの田んぼに分かれて参加者が田植えに向かう。
指導員が先導して、田んぼでの説明と実演が行われる。にぎやかに田植えが始まった。
田植えの様子を撮影するカメラマンがたくさん並んでいてちょっとびっくりした。寺坂
棚田学校の田植え風景は季節の風物詩にもなっているようだ。学校開校から10年、すっ
かり定着した棚田での米作り。素晴らしい成果だと思う。私も何枚も写真を撮った。
稲茂さんの娘さんが来ていたので話を聞いた。
「私たちもああやって田植えをしたんですよね。5人の子供が並んで『せぇ〜の』って声
を掛け合って。母がいつも綱張りをしてました」
「一時は棚田が荒れて、草だらけになってたけど、うちは毎年米作りをしてましたね」
「こうして全部が田んぼになっているのを見ると、本当にうれしいですよね」
棚田での米作りは水の管理が特に厳しい。水が少ないときは大変で、夜中に水番をしな
ければならない事もあって大変だった。時にはけんか沙汰になった事もあり、殴られた事
もあるという。寝ずに見回りをしたこともある。昔から水争いはどこでもあったが、ここ
でもそれは同じだった。一つの川の水をこの寺坂棚田地区と、隣の総合グランド地区で時
間によって分け合っているので、どうしても微妙な軋轢は残る。米作りには避けられない
問題だ。ここの水は綺麗なので田んぼにつきもののヒルがいないそうだ。
寺坂棚田学校の成功から棚田保全の活動はさらに活性化した。平成15年度からは棚田
のオーナー制度を導入し、都市住民が棚田での米作りが出来るようにした。耕作放棄地だ
った場所や、畑だった場所が次々に田んぼとしてよみがえり、昔ながらの棚田の風景が復
活してきた。稲茂さんも復活した棚田を万感の思いで見ていたという。
棚田の中程にある、稲茂さんの田んぼを見に行った。息子さんの話では、近くに鹿が住
み着いていて、苗を食い荒らすそうで、苗には鳥除けの網がかけられていた。田んぼに近
づいたら、突然二羽のキジが飛び出したので驚いた。こんな至近距離でキジを見たのは初
めてだ。どうやらキジも住み着いているらしい。おまけに鴨まで出てきて、こちらは代か
きの終わった田んぼをスイスイと泳ぎ回っている。これだけ整備された棚田で、こんな光
景が見られるとは思っていなかったので興奮してしまった。
雑草だらけの畑に囲まれて、少し残された田んぼで米作りを続けることの大変さが少し
分かったような気がした。鹿が来る、イノシシが来る、スズメやヒヨドリやムクドリが群
れて飛んでくる。動物たちにとって米はごちそうだ。稲茂さんの戦いは、天気と動物と稲
の病気が相手の難しいものだったが、持ち前の研究熱心さがそれを支えた。
「田んぼには毎日見に行くんだいね。そうでなきゃダメなんだいねぇ」
「田んぼが好きなんだいね。そんなに仕事があるんかってくらい仕事があるんだいねえ」
若い人も、年配の人も、外国の人も、みんなでワイワイ田植えする。
自分の手で植えた苗が稲穂になり、美味しいお米になる。
新しくオーナーになった人が米作りをすると、様々な問題にぶつかることになる。指導
員として稲茂さんは問題解決に力を貸す。ある田んぼの稲が、中央部分だけ黄色く変色し
始めて相談を受けた。そこは代かきの時に土が盛り上がっていて、土を除けた場所だった
。稲茂さんは即座に「栄養のある土を除けた場所だから、肥料不足だ。肥料をを与えれば
大丈夫」とアドバイスをした。すぐに施肥をした田んぼは自然に元通りになり、順調に収
穫を迎えることが出来た。長く棚田を見守ってきた経験が的確なアドバイスを生む。
寺坂棚田学校の歩みとともに稲茂さんも過ごしてきた。こういう人がいたからこそ棚田
が残ってきたのだと思う。時代の脚光を浴びるようになった棚田だが、その裏には連綿と
稲茂さんのような人々の努力が続けられていた。
無口だけど、みんなに親しまれる指導員。間違ったことが嫌いで、お酒を飲むとほがら
かになり、旅が好きで、山登りも大好きな稲茂さん。見合いで一目惚れした奥さんと、5
人の子供や孫たちに囲まれて田植えをしている時が一番幸せな時間なのかもしれない。