山里の記憶
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岩茸の話:山中龍太郎さん
2009. 7. 1
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両神山(りょうかみさん)、秩父山地の北端にある山。標高1723メートル、日本百
名山の一つ。ブッポウソウやアカヤシオツツジが有名な秩父の名山だ。今回、岩茸の話を
取材に行ったのは、両神山登山口にある民宿「両神山荘」の山中龍太郎さん(74歳)の
ところだった。岩茸の取材先を探していたら、知人から紹介され、今日の取材となった。
両神山荘は薄(すすき)川上流最奥に位置する民宿だ。標高は680メートルある。小
雨の中、道路から見上げる両神山荘は半分霧に隠れていた。民宿の前から、斜面に沿って
両神山の登山道が霧の山に向かって伸びている。駐車場に車を止めて玄関に向かうと2頭
の犬が出迎えてくれた。どちらも人なつっこい犬で、大きい方が「ポチ」、小さい方が「
ポン」と呼ばれていた。
龍太郎さんは居間の炬燵に入っていて、笑顔で中に招き入れてくれた。挨拶をして炬燵
に入り、色々な話をした。奥さんのマツヨさん(70歳)が美味しそうなお茶請けをたく
さん出してくれた。事前に岩茸の話を聞きたいと伝えていたので、取材はスムーズに進ん
だ。龍太郎さんから岩茸採りにまつわる色々な話を聞くことができた。
両神山荘をしたの道から見上げる。すっぽりと山に包まれている。
広間の炬燵に入ってお二人に色々話を聞いた。
両神山はチャートと呼ばれる固い岩盤で出来ていて、岩茸はその固い岩盤上に生える地
衣類の一種だ。チャートの主成分は二酸化ケイ素(Si02・石英)で鉄よりも硬く、火打ち
石として使われる岩石だ。龍太郎さんは「火打ち岩」と呼んでいた。垂直に切り立った岩
壁に生える岩茸だが、天気が良く乾燥している時はカラカラに丸くなっていて、手で採ろ
うとするとパリパリっと割れてしまう。梅雨時の湿気の多い時期が採集に適している時期
で、ちょうど今頃に採りに行くと良い状態の岩茸が採れる。
「昔は朝雨が降っていると、必ず採りに行ったもんだいねぇ。3時頃家を出て昼には帰
ってくるような案配だったいねえ。昼過ぎになると乾いたのが多くなるんでねえ・・」
「乾いたのを手でつかむと粉んなっちまうからねえ。包丁でこそぐように落として、ビニ
ール袋に入れて、持ってった水で霧を吹くんだいね。湿るとやっこくなるんで、袋に詰め
込むんさあ。やっこくなりゃあ、割れねえかんねえ」
しかし、濡れればその分重くなる。雨の日に採った40キロもの岩茸をカラカラに乾燥
させたら4キロになってしまった。それでも割れないように採る方が優先されるのは、食
べる時の下処理の問題だと言う。粉になってしまった岩茸は下処理が出来ない。
垂直の岩場に生えている岩茸を採るには、30メートルほどのロープを使う。昔は普通
のロープを腰に巻いただけで採っていたそうだが、今は良いロープと道具があるのでずい
ぶん安全になった。昔は『岩茸採りには宿を貸すな』と言われるくらい事故が多かったそ
うだが、今はそれほど事故は多くない。それでも危険が伴うことに変わりはない。
「完全に用心してやれば事故はないやねえ。事故を起こす人は用心が足りないんだいね」
「ダメだと思ったら止めることだいね。あと2メートルで事故を起こす人が多いよね」
岩場の上からロープを下ろし、降りながら採った岩茸は袋に入れて、一杯になったら下
に落とす。後で岩場の下で袋を回収するようにすれば事故はない。欲をかかないことと、
遠回りする時間を惜しまないことが無事故につながる。
龍太郎さんは主に自分の山で岩茸を採っている。どこにどれだけあるか知り尽くしてい
る場所での作業なので、無理もしないし事故も起きない。普通の岩茸は開いている時、傘
の色が鈍い緑色をしているが、古いものになると茶色や茶褐色のものがある。両神山で採
った百年ものという岩茸を見せてもらった。大きさも厚さも普通のものとまったく違う。
岩茸は一年で2ミリから3ミリくらいしか成長しないと言われている。乾燥状態で20セ
ンチ以上もあるものは本当に少なくなったそうだ。古いものほど身が厚く、歯ごたえも良
く、旨味があるという。
料理上手なマツヨさんが出してくれたごちそう。
カラカラに干した岩茸は、段ボール箱で保存する。
岩茸は昔は薬で、少し食べるだけだった。安政年間には江戸城に献上したこともあるそ
うだ。長寿の薬として食べられていたのだろう。今でも腹薬(はらぐすり)にと食べる人
が多いようだ。
採ってきた岩茸は天日でカラカラに乾燥させて保存する。保存している間も生きている
ので、風通し出来る容器で保存する。ビニール袋などで密閉すると黴びたり、変質したり
して食べられなくなる。龍太郎さんは段ボール箱で保存している。昔は麻袋で保存してい
たそうだ。保存している倉にも定期的に風を入れるようにしている。
さて、カラカラに乾いた岩茸をどうやって食べられる形にするのか。ここから先は、料
理上手で評判の、奥さんのマツヨさんが教えてくれた。岩茸の下処理は手間がかかる。
乾燥した岩茸をボールに入れ、上から熱湯をヒタヒタに注ぎ、しばらく置いておく。岩
茸は鮮やかな緑色になるが、その緑色が無くなるまで揉み落とさなければならない。岩茸
が柔らかくなったら、両手でゴシゴシ揉む。真っ黒な汁が出るが、水を替えながら黒い汁
が出なくなるまで揉む。両手で強く揉んでも岩茸が切れたりすることはない。黒い汁が出
なくなるときは表の緑色は消えて青色に変わる。
ボールで洗いながら一つずつ丁寧に石づき部分をちぎり取る。石づきが残っていると食
感が著しく悪くなるので、丁寧に取り除く。この手間を惜しむと、せっかくかけた手間が
無駄になる。これで下準備は終了。あとは料理に応じて手を加える。
天ぷらはこれに衣を付けて揚げるだけ。さっと揚げるだけでモチモチした食感になる。
下処理した岩茸を鍋で水から煮込み、沸騰して2分から3分でザルに上げる。そのまま
冷まし、握りすしや酢の物や酢味噌和えに加工する。酢味噌和えはこのまま酢味噌と和え
るだけ。握りすしは岩茸を甘酢に漬け込んで、味がしみたらご飯と握る。岩茸の下にワサ
ビを少し忍ばせると味に変化が出て美味しくなる。
酢の物は甘酢に浸して味がしみこんだらすりゴマを振る。キュウリの千切りなどを入れ
たこともあったが、今は岩茸だけでやっている。このほうが岩茸の味がよく分かる。
マツヨさんは岩茸のおじやを食べたことがある。下処理した岩茸を刻まずにおかかやご
飯と煮て、醤油で味付けしておじやにする。色は黒いが美味しかったそうだ。腹薬(はら
ぐすり)になるといって、土用のウナギ代わりに食べたものだそうだ。
龍太郎さんは山で岩茸を採り、下処理してそのまま鍋でグツグツ煮込んで、海苔の佃煮
のようにして食べたことがあるという。山仕事のおかずにしては上等なものだった。
鮮やかな手際で天ぷらを揚げるマツヨさん。
玄関先で犬と遊ぶ。岩茸採りも一緒に行くのだそうだ。
マツヨさんの料理の手際が素晴らしい。きれいに整頓された厨房で、あっという間に何
品もの岩茸料理が出来上がった。いつも百人からの料理を作っている手練の技だ。炬燵に
移動し、美味しい岩茸料理を頂きながら、お二人に昔の話をいろいろ聞かせてもらった。
マツヨさんは19歳の時に、この家の養女となった。その頃はまだ電気が無く、ランプ
での生活だった。ぶら下がっているランプに頭をよくぶつけたものだった。
23歳の時、26歳の龍太郎さんと結婚した。婿取りという形になる。昭和36年のこ
とだった。二人は養蚕、炭焼き、こんにゃく作り、椎茸栽培、麦作りなどに精を出した。
特にこんにゃくは、人を大勢使って事業化するほど規模の大きなものだった。龍太郎さん
が笑いながら言う「あの頃、小鹿野の田んぼでも買っておきゃあ、今頃ははあ、大変なも
んだったいねえ」「杉が高値だったんで、山に使っちゃったんだいねえ・・・」
順調だった生活が、昭和48年のオイルショックで一変した。こんにゃくの値が下がり
、肥料代や燃料代の高騰・・・。日本中がパニックになったくらいだから、山里でも混乱
は大きかった。様々な試行錯誤の末、昭和51年、二人は民宿「両神山荘」を開業した。
珍味「岩茸料理」は民宿の売り物の一つだった。マツヨさんの料理も評判になり、折から
の登山ブームも拍車をかけ、民宿は見事に軌道に乗った。
昭和61年、NHKの「小さな旅」で取り上げられたのが大きな宣伝になったという。
宗助おじいちゃんの素朴な人柄や、栃もち作りや岩茸料理、囲炉裏で聞く猟師話などが
放映され、両神山荘の名前は全国に知れ渡った。
今、育て上げた3人の娘は嫁に行き、二頭の犬と民宿を経営する日々が続いている。龍
太郎さんは、最近膝が痛くて以前のように山歩きが出来なくなってきた。マツヨさんも、
「いつまでここでこうやっていられるんかねえ・・」とつぶやくように言う。両神最奥の
民宿。両神山の懐に抱かれた山人の宿。いつまでも続けて欲しいと願うのは私だけではな
い。お二人の笑顔に送られて、全国に帰って行った人たちみんなが願っている。