山里の記憶
53
石垣を積む:山中寅次さん
2009. 7. 18
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7月18日、秩父市大滝寺井の山中寅次さん(83歳)の家を訪ねた。大滝で石垣積み
ならこの人と言われている寅次さんの話を聞くためだった。寅次さんの家は、寺井耕地で
二瀬ダムの秩父湖を見下ろす南向きの斜面にあった。ちょうど畑仕事の休憩時間に当たっ
たようで、寅次さんは昼間はいつもここにいるという作業小屋に案内してくれて、お茶を
入れてくれた。作業小屋は4畳半くらいの畳部屋に土間がついているコンパクトな作りに
なっていて、冷蔵庫やテレビまで完備された快適な空間だった。
事前に石垣積みの話を聞きたいと伝えてあったので、話はスムーズに進んだ。紹介して
くれた知人が「寅ちゃんは気むずかしい人で、写真なんか撮らせないし、気が向かないと
口をきいてくれないんだいね・・・」と心配してくれたのだが、寅次さんは気さくに色々
な話を聞かせてくれた。
寅次さんの石積みは、昭和37年、自身と仲間で三国建設を起こし、常務に就任したこ
とから始まった。折しも、秩父で初めてとなる巨大な二瀬ダムの工事が盛んに行われてい
る時で、周辺工事を含め、空前の土木工事景気に沸いていた時期だった。翌38年に二瀬
ダムは完成している。
秩父市大滝寺井耕地の明るい斜面にある寅次さんの家。
作業小屋でいろいろな話を聞かせてくれた寅次さん。
最初は師匠に就いて石運びからやらされた。何年も石を運んでいるうちに「それじゃあ
この辺を積んでみな」と一部を任され、良ければ少しずつ仕事を任せてもらえるようにな
った。師匠のやり方を見て盗むのが仕事だった。大滝の石組みは自然石が基本だから、一
つとして同じ石はない。石を見るのが基本で、石の組み合わせが分からないと石垣は組め
ない。80歳までの40年間、様々な石垣作りに関わってきた。
石垣積みは色々な所でやった。寺井から奥、栃本周辺の石垣は大部分が寅次さんの手が
入っているという。「俺が石屋じゃあ一番だっていう自負はあらいね。普通の人が4日か
ら5日かかるのを一日でやるかんね。その代わり手伝う人が嫌がらいねえ、あっはっは」
と豪快に笑う。
寅次さんがノートに積み方の基本を描いて教えてくれた。
「よく親方から、みっつ、みっつ何でしょね?って唄いながら言われたんさあ、何のこと
か分かるかい?」当然ながら、聞かれても分からない。
「こうやって三点が着くように石を組むんだいね」ノートには石を斜めに組み合わせる図
が描かれている。石垣は谷を作るように組まなければならない。そうすれば自然に良い面
(つら)の石垣になる。面(つら)が八分目で、積み方が二分と言われていた。
「石の気になって、いい顔を出してやるんだって気持ちで積むんだいね」
地面の一メートル下から積み始める。一番下の石を根石といい、きれいな石垣はこの根石
で決まる。田口さんという名人が積んだ、二瀬(ふたせ)から寺井に来る途中のヘアピン
カーブの石垣は、深さ4メートルで上が16メートル、高さ20メートルの石垣が自然石
で積まれている。それはそれは素晴らしい石垣だ。自然石の石垣は面(つら)が美しい。
一つの石を6個の石で囲むようにするのがきれいに積む秘訣だ。四つ巻き、八つ巻きや
重箱のダメな積み方を教えてくれた。この辺の基本は、以前取材した石垣積みと同じだ。
石垣積みの話ばかりではない。寅次さんの本業は現場責任者だ。測量もすれば写真も撮
る。図面も引いたし、何でも出来なければいけなかった。大変な知識と技術が必要だ。
一時期は砂防堰堤の建設ばかりをやっていた。大洞川(おおぼらがわ)には15本もの
砂防堰堤を建設した。堰堤は全部で30本以上建設したという。当時はユンボが無かった
ので作業は大変だった。ブルドーザーで道を切るだけでも大変な作業で、危険と隣り合わ
せの仕事だった。多い時は100人以上の部下を使って仕事をしていた。
寅次さんにお願いして、積んだ石垣を見せてもらうことにした。作業小屋を出た寅次さ
んが「これが40歳くらいのときに積んだ石垣だいね」と指さす。そこは自宅の裏の石垣
で、50センチくらいの大きな自然石が見事に積み上げられた石の壁だった。高さは7m
から8mくらいありそうな美しい石垣。「まあ、未熟なもんだいね」と寅次さん。
車で寅次さんが最後に積んだ石垣を見に行く。そこは「ウッドルーフ奥秩父オートキャ
ンプ場」だった。素晴らしい曲線の石垣で作られたキャンプ場。3年前、80歳の時、一
年間かけて積み上げた石垣だ。その石垣の見事さに感服した設計士の依頼で、メインの建
物の壁を石で積むことになった。奥行き25センチから30センチの壁を石で積み上げる
。さすがの寅次さんも「あれは難しかったいねえ」と懐かしそうにつぶやいた。出来上が
った重量感たっぷりの外観は、モダンで素晴らしい建物になっていた。石垣積みの名人と
して、面目躍如した最後の仕事だった。別に一日で積んだという忠魂碑の石垣も見せても
らった。川から石を運んで積んだという石垣は素晴らしい土台になっていた。
ノートに石垣積みの図を描いて説明してくれた。
ウッドルーフ奥秩父オートキャンプ場。寅次さん最後の作品。
再び作業小屋に戻り、一休みしてから寅次さんに昔の事を聞いてみた。
大正15年、寅年に生まれたので名前が寅次と付けられた。当時の農家がどこもそうだ
ったが、養蚕中心の生活で、家の中は「お蚕様」が占領していて、寝る場所もないような
状態だった。大勢の家族に囲まれて育ってきたが、太平洋戦争の混乱が待っていた。
戦争が徐々に激しさを増し、18歳の時に陸軍の少年飛行兵として出陣した。戦争末期
だったので生産援助として飛行機作りをしていたが、11ヶ月で終戦を迎えることになっ
た。最終的な階級は兵長になっていた。もし、あと半年終戦が遅かったら、沖縄から特攻
に飛ぶ運命だった。
大滝に帰った寅次さんは懸命に働いた。24歳の時に栃本から21歳のラン子さんを嫁
にもらった。結婚した当時はまだ人が大勢いてにぎやかな結婚式だった。ラン子さんは本
当によく働く人だった。「いい嫁をもらったもんだ」と皆にうらやましがられた。
その後も大勢の家族を食べさせるために、身を粉にして働く毎日だった。しかし、徐々
に養蚕にかげりが見え、順調だったコンニャク作りも30年代後半に中国産が入って売値
が暴落した。時代が大きく変わり始めた。山の仕事では食べて行くことが難しくなり。寅
次さんは冒頭に書いたように会社を興し、土木工事に活路を見いだした。
寅次さんはみんなが認める負けず嫌いだ。自分でも言う
「人間、生きていくには競争がなければだめだいね。負けないように頑張るんがいいんだ
と思うんだいね・・・」苦しい生活の中でも4人の子供を育て上げ、集落で誰かが洗濯機
を買えば「負けるんじゃねえ!」と洗濯機を買い、誰かがテレビを入れれば自分もテレビ
を買う。近所で競争し合うことが、お互いに成長するパワーになった。
人がやることは大概のことはやった。それも人より達者に。釣りも投網も名人と言われ
た。岩魚は一日に2貫目(8キロ)も釣ることがあった。注文に応じて宿に卸していた程
だった。「夏の土用になると急に魚が釣れなくなるんだいね。まったく、そういう時に限
って注文が入るんだいね」注文をキャンセルした事はないという。
狩猟もやった。猟友会の会長をするくらい周囲にも認められたハンターだったが、さす
がに年齢的な衰えもあり、狩猟免許は83歳になった今年の3月15日に返納した。
川から石を運び、一日で積んだという忠魂碑の土台。
味が自慢のかぼちゃ「伯爵」作り始めて十年になる。
そんな寅次さんだが、10年前にラン子さんを亡くして、長男夫婦との暮らしが続いて
いる。「よく働くおっかあだったいねえ。いいおっかあだったよ」とラン子さんを懐かし
む。その頃から寅次さんはカボチャを作るようになった。「伯爵」という品種で、固く味
の良いカボチャと評判だ。売るのが目的ではないのだが、味の良さに毎年買ってくれる人
がいる。大部分は知り合いに配るために作っているようなものだが、性格上真剣に作るこ
とだけは止められない。
老人クラブの会長をしている寅次さんには、今心配なことがある。平成17年4月1日
大滝村は秩父市と合併し、秩父市大滝となった。旧大滝村にあったすべての組織は秩父の
支部になってしまった。当初、これがどういう事になるか分かっていなかったが、徐々に
その現実が明らかになってきた。
大滝の問題は大滝で解決できず、秩父の一地区の問題としてしか見てもらえない。現に
婦人会は無くなった。観光協会もなくなりそうだ。大滝が大滝らしく生き残っていく方法
が無くなりつつあるように感じている。合併は果たして良かったのか、悪かったのか。
「年寄りにゃあ、良かぁなかったような気がするねえ・・・」寅次さんの苦悩は深い。