山里の記憶
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昔の大物撃ち:廣瀬利之さん
2009. 8. 15
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8月15日、以前に「昔の渓流釣り」の話を聞いた栃本の廣瀬利之さん(86歳)に、
今度は昔の狩猟の話を聞く為に伺った。利之さんの狩猟は鹿や熊が対象の「大物撃ち」で
、毎年何十頭もの獲物を獲っていたという。20年前に銃を返納したということだが、昔
の狩猟について細かく記録に残してあり、詳しい話を聞くことができた。
利之さんが使っていた猟銃は村田銃だった。構造が簡単で故障も少なく、手入れがしや
すかった。弾は鋳型に鉛を流し込んで自分で作った。射程距離は70メートルから100
メートルだったが、20メートルくらいまで近づいて撃てば、確実に仕留められた。
昔は養蚕をやっていたという利之さんの家。
家の前には様々な花が咲いていた。利之さんに話を聞く。
獲物は鹿が中心だった。熊は生息数も少なく、狩猟時期に巣ごもりに入ってしまう為あ
まり穫れなかった。イノシシは今でこそ狩猟対象で害獣として嫌われているが、昔は大滝
にはいなかった。もともとイノシシは狭山とか飯能、小川あたりの丘陵地帯に住んでいた
ものが、宅地開発で奥に追い込まれてきて、最奥の山に棲み着いたのだという。イノシシ
も人間の被害者だったことになるが、獣害を受ける側としては複雑な思いがする。今では
すっかりイノシシの天下になっているのだから皮肉なものだ。
熊は巣ごもりした場所を見つけ(そのまま撃つと巣から出すのが大変なので)巣から追
い出して撃つのが基本だが、なかなか目を覚まさずに苦労したものだった。珍しい例だが
、大除谷(おおよけだに)で穴に入りそこなって、岩の下に樅の木を集めて冬眠している
のを撃ったことがある。百キロを超える熊で運ぶのが大変だった。その日には出せずに、
翌日仲間と木馬(きんま)道を利用して運んだ。重くて担ぐ事も出来ないので、この時は
ノコギリで背骨を切って、二つに分けて運んだものだった。
鹿猟の勢子(せこ:追い出し役)をやっていて、鹿だと思って追い出したら熊だったと
いう事があった。その場で腰だめで撃って穫ったが、距離は20メートルもなかった。
他にも大除谷で百キロ以上の熊を出すのが大変だったことがある。二人で担ごうとした
ら重さで肩縄が切れてしまい、ロープを使って少しずつ急斜面をずり下し、川は索道を使
って越した。やっとの思いで家まで運んで、近所の人に見せていたら、ちょうどそこに居
合わせた横浜の人が、そのまま一頭丸ごと買っていったという事もあった。
熊に関しては長老たちに巣穴を教えてもらうとか、巣穴が分からないと猟にならなかっ
たし、絶対数も少なかった。反面、数も多く主な狩猟の対象になっていたのは鹿だった。
利之さんが仕留めた大鹿の剥製。70キロの大物。
克明に記録された鹿猟のアルバム。50年以上も前のもの。
鹿猟は4人から5人で組になり、まだ暗いうちから懐中電灯の明かりで山に入る。今と
違って自動車道はなく、最初から最後まで自分の足だけが頼りだった。仲間はみんな足が
達者な者ばかりだった。当時大滝には4組くらいのグループがあったが、利之さんの組が
最古参だった。通常、勢子が先に入った組がその猟場の優先権を得るようになっていたか
ら、暗いうちからの出発も仕方のないことだった。場所によっては勢子だけ先に猟場に向
かうこともあった。
猟場が近くなると、カシラがその日の勢子とタツヒキ(射手)を決める。勢子は一人で
犬を連れて鹿を追い出し、達場(たつば:鹿が追われて逃げる場所)で待ち構えるタツヒ
キが獲物を撃つ。何カ所かの達場のうち、どこかで大概獲れたものだった。
それぞれが担当する場所に移動するが、ここからは道のないところを移動することにな
り、その苦労は大変なものだった。特に勢子はずっと動いていなければならず、獲物がい
るかどうかも分からないのでひどく体力を消耗した。
猟犬は各自が様々な方法で鍛え上げており、かすかな物音や匂いで獲物を見つけ出す。
獲物を発見した時は猛然と薮に飛び込んで行き、激しく吠え立てる。この吠え声ほど、勢
子の疲れを癒すものはないという。どんなに疲れていても、この獲物を発見した犬の声を
聞くと、疲れなど飛んでしまうものだった。通常、追われている獲物は追っている犬が所
属する組のもので、誰の犬が付いているかでどこの獲物かを判断された。
犬がどこに獲物を追うかを確認するために勢子は近くの尾根に登る。足跡がはっきりし
ている場合は犬とともにその跡を追う。運良く獲物に遭遇したなら、ためらいなく発砲す
る。散弾の一つでも当たれば、その後の獲物の逃走力は半減する。
一方、達場で待機するタツヒキ(射手)はじっと動かずに待つ。寒い時期は早めに火を
燃して、大きな熾を作って暖を取る。獲物が来そうな時間には煙を出さないようにした。
追われた獲物は必死で逃げる。疲れると下に降りるのが常で、達場の多くは川にある。
追われて川に下るのを「川にノル」と言う。河原が開けている場所では、反対側の暗く障
害物が多い場所を巧みに隠れながら逃げる。淵に氷があればその中に潜って逃げる。中に
は凍った淵で顔だけ出して潜っていた鹿もあったという。逃げっぷりの見事さはあっぱれ
で、馬鹿などという言葉は勘違いも甚だしい。
山にある達場をヤマダツと言い、多くは尾根の鞍部になっている。ここに逃げてくる獲
物はまだ余力を残している元気な鹿なので、ヤマダツのタツヒキは俊敏な射撃が求められ
た。ここを逃げられると。ほぼ追うのは難しかった。
運良く達場に出てきた獲物はタツヒキが仕留めた。犬が追い詰めて勢子が仕留める場合
もあった。半傷(はんで:ハンヤともいう)の鹿はその強大な角で犬を引っかけて放り投
げ、殺してしまう場合もあるので、慎重に仕留めなければならなかった。
全員の協力作業で撃ち獲った獲物は、すぐに水場に運び内臓を処理する。水場がない時
はその場で処理する。早く処理しないと肉に特有の匂いが移って臭くなってしまう。水場
がない場所での作業は大変で、血まみれ、糞まみれになってしまうのが常だった。
内蔵を処理し終わると、腹腔には新鮮な血が残る。これを一口飲むのが猟師の特権だっ
た。新鮮な血は香ばしく、万病に効くと言われており、特に冷え性に効くと言われていた
。残った血は犬に与え、鹿の味を覚えさせるのが良い猟犬を育てるコツだった。
処理の終わった鹿は、頭を腹に押し込み、足4本を縛り上げ、肩縄を付けて背負った。
そのまま猟を続けるときは縛り上げたまま木に吊しておいた。地面に置いておくとテンや
イタチなどの肉食獣に食われたりするからだ。帰路に発見する目印としても吊しておくの
が分かりやすかった。
一人の時は獲物の上にリュックを背負い、銃も持って険しい山を降りなければならず難
渋したものだった。しかし、集落に戻れば獲物を見せつけるように担ぎ、賞賛のまなざし
を受けるのが心地よかった。
アルバムの写真の一枚。一人山上にたたずむ狩人の写真。
利之さんが走り回って獲物を追った秩父の山々。
獲物の皮をはぎ、解体するのが最後の仕事だった。皮は板に張り、カラカラに乾燥させ
たものをまとめて売った。解体した肉はカシラが平等に分配した。
狩猟の獲物は自分たちで食べたりもしたが、毛皮も肉も買い手がいて、猟期中の収入が
生計として充分成り立ったものだった。熊の毛皮は飾り物として、熊肝(くまのい)は高
価な薬として、脂は火傷や凍傷の薬として売れた。鹿の毛皮は鹿皮以外にも筆の材料とし
て売れ、鹿の角は刀掛けや飾り物として、また鰹漁の疑似餌材料として売れた。雄鹿のペ
ニスや雌鹿の腹子はよく乾燥したものを薬として買いに来る人があった。鹿肉は塩漬けに
すると長期間保存ができ、腹痛の妙薬でもあった。
また昭和30年から禁猟になったカモシカは毛皮がもっとも貴重品で、猟師や山仕事を
する人の腰(尻)皮として重宝された。鹿とは同じ皮とは思えないほど暖かく、水を通さ
ない毛皮だった。剥製にして土産物店の店頭を飾ることも多かった。
利之さんの話は昔の狩猟の話から最近の村の実情へと飛ぶ。昔の狩猟は生活のためでも
あったが、今の狩猟はレジャーの一部になっている。猟友会の害獣駆除なども重要な活動
だが、会員の高齢化が問題だ。山には杉ヒノキの林が広がり獣の餌が少ない。
昔は奥山にじっと潜んでいた熊や鹿やイノシシ、サルが人家近くまで出没するようにな
ってきた。特にイノシシとサルの農業被害は甚大で、農家の生産意欲を削ぎ、山間地での
農業は先細りだ。イノシシとサルは繁殖力が強く、害獣駆除といってもわずかなもの。金
網に守られて人間が野菜を作り、獣がその周囲で隙を伺っているというありさまだ。
原因が人間にあるとはいえ、今昔の皮肉な変遷は山里の未来を暗くしている。