山里の記憶
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木を製材する:久保円重(えんじゅう)さん
2009. 10. 2
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9月21日、小鹿野町般若(はんにゃ)の丸圓(まるえん)製材所に関根さんと二人で
伺った。関根さんがお世話になっている製材所で、同行して製材の話を聞くためだった。
ご主人は久保円重(えんじゅう)さん(73歳)で、ここ般若で昭和27年から製材業
を営んでいる。伺ったとき円重さんは草刈り機で製材所内の草刈りをしていたが、関根さ
んが声を掛けるとすぐに機械を止め、にこやかに挨拶してくれた。取材のお願いをすると
、快く引き受けてくれたので、そのまま取材することになった。
丸圓(まるえん)製材所の事務所。二階は倉庫になっている。
製材所の中央には大きなバンドソーが設置されている。
円重さんは小さいときに両親を亡くし、中学校を出てすぐに16歳で熊谷の製材所に住
み込みで働いた。四人の小僧さんがいて、仕事は雑用から掃除、配達など休む時間もない
ほどだった。ご飯を食べるのが早いのが自慢だった。ゆっくり食べていたのでは仕事にな
らなかった。円重さんは言う「他人の飯を食うのはいい事だいねえ。楽して仕事をするの
はダメだという事が身にしみたいねえ・・・」大きな製材所で、大勢の人に揉まれ逞しく
成長した円重さん。21歳の時に帰郷し、多くの人に助けられ、山仕事で生計をたてるよ
うになった。
円重さんは25歳の時、21歳の節子さんと結婚した。結婚のいきさつを聞いてみた。
円重さんはお兄さんを二人戦争で亡くしていた。戦没者ということで東京の靖国神社に合
祀されていた。節子さんは大塩野の出身で、やはりお父さんを戦争で亡くしていた。
当時、地区で靖国神社に遺族会で参拝し、戦没者を慰霊する会が催された時に一緒にな
り、その後意気投合して結婚することになった。節子さんは苦労人で、円重さんと同じよ
うな境遇だったため、お互いに惹かれ合ったもののようだ。
円重さんの仕事は原木を購入して板に挽いて売ることだが、大工さんなどに注文されて
様々な板を挽くことも多い。昔は自分で山の木を伐り、出荷するのを仕事にしていた。そ
の頃、山仕事の休憩場所として山小屋のようなものをこの場所に建てて使っていた。陰ひ
なた無くまじめに山仕事に精を出していた。円重さんに、40歳の時に転機が訪れた。
4月8日のことだった。知り合いから「製材機が余っている」と聞いた時にひらめくも
のがあり、その日のうちに購入を決め、場所も借り、5月に製材所を着工した。決めれば
動くのは早い。あっという間に製材業へと転進した。その後、様々な問題を一つ一つ解決
しながら、徐々に業務を拡大していった。世の中はバブル景気の時代に突入し、製材業も
その恩恵に預かることができた。「自立にいい時期だったいね」と円重さん。
山村が活性化するには林業が活性化しなければ本当の活性化ではない。円重さんのよう
な製材業が活発に活動するようでなければ山村は活性化しない。山の木は植えて育てただ
け、また切り倒しただけでは製品にならない。板や柱に製材して初めて商品になる。家一
軒建てるだけの木が山にあっても、製材しなければ建材にはならない。したがって製材業
が元気かどうかでその山村が元気かどうかが分かると言ってもいい。
「そんな大げさな事じゃないよ」と円重さんは笑う。「こっちだって商売だからさあ、
ちゃんと儲けられるようにやらないと続かないしねえ」「でも、喜んでもらえるんが一番
だいねえ」この仕事を始めて5年から10年くらいは、製材業の面白さが分からなかった
という。そのうち「お客さんに良い木目が出たねえ、とか良い板を挽いてくれて良かった
よ、なんて言われると嬉しくてね」とお客さんの喜ぶ声で仕事が楽しくなったと語る。
巨大なバンドソーの刃が保管されている。
円重さんが様々な木や板の話を聞かせてくれた。
円重さんが製材所の中を案内してくれた。様々な木が積み上げられており、様々な板が
所狭しと立てかけられ、あるいは積み上げられていた。木が好きな関根さんと私は円重さ
んの説明を聞きながら、だんだん目が輝いていった。
栗の木の床板、桐の床板、楠の床板、檜の壁板、欅の壁板、神代杉の天井板、様々な板
が積み上げられている。床板や壁板の縁を加工する機械を見せてもらった。独自の工夫を
重ねたフローリングカッターを使い、しっかり組めるホゾを研究している。
様々な木の話や説明を聞いた。印象に残ったのは良材の話「植林した杉や檜は最初の年
輪が粗いんで、いい材じゃなくなっちゃうんだいね」この言葉は重かった。
植林して、下刈りをして、枝打ちをして、間伐をして我々は杉・檜を育てる。しかし、
育ってみれば手をかけた分だけ良く成長し、材としては目の粗い材となってしまう。
厳しい環境の中で育ち、木目が詰んでいればいるだけ良材として扱われる。大量の杉や
檜は早く成長したものほど材木としての評価が低くなる。一概にそう言えない場合もある
が、木を育てることの難しさがよく分かる。10年、20年ではなく、百年二百年の時間
で考える世界だからこそ厳しく枝打ちをして間伐をして育てる必要がある。
製材所の中には日本ミツバチの巣があったり、焼却炉や燻煙室、蒸し小屋などが作られ
ていた。これらは全て円重さんが工夫して自分で造ったものだ。
焼却炉は製材した時の端材を燃やし、灰を再利用するために作ったもの。燻煙室は4メ
ートルの材が楽に入る部屋で、燻煙することによって虫が付かないようにする為のもの。
蒸し小屋は今は使っていないが、丸太を蒸して皮をむきやすくする為のもの。床柱などの
皮むきは蒸してむくとクルリとむけるので、長い丸太を蒸すように工夫したもの。これは
和紙材料の楮の皮むきを参考にしたという。
様々な工夫と実践で製材所を運営してきた円重さんだが、10年前に息子さんが独立し
、別の製材所をやるようになってから、徐々に仕事の比重を特殊なものに変えてきた。今
は神社やお寺関係の製材、半端物や寸法に合わない物、大工さんこだわりの物などを多く
手がけるようになってきた。息子さんと取引先が重ならないようにとの親としての配慮も
働いているのではないかと思う。
事務所の上や製材所の二階が倉庫になっていて、様々な木工品が置かれている。臼や杵
、延べ板、木鉢などが所狭しと置かれている。預かっているものや、売り物を乾燥中なの
だ。加工職人も円重さんのような人がいて、預かってくれる場所があるというのはとても
ありがたいことだと思う。木工の世界がどんなものなのかは知らないが、横の関係が蜜に
なれば生活の幅が広がることは間違いない。この日の取材はここで終わった。
百年生のモミの木をバンドソーでスライスする円重さん。
「あれが栃の木さあ」と指さす。木鉢になる板を乾燥させている。
10月2日、円重さんが製材をするということで再度伺った。大きなバンドソーが高速
回転し、太い丸太が次々と板になっていく。バンドソーの作業は初めて見るので、ちょっ
と興奮していた。このバンドソーは12メートルの長さまで丸太をスライスすることが出
来る。ちょうど百年生のモミの木を製材するところだった。直径80センチはあろうかと
いうモミの丸太をクレーンで吊り上げ、台車にセットする。
円重さんは台車の運転席に立って、どの角度で切るか慎重に見極める。どう切って、ど
ういう板にするかが利益率の分かれ目になる。経験と勘、どちらも働かせなければ無駄な
端材が出来てしまう。原木の木口に割れ目が入っている場合は、割れ目に沿って切るよう
にしないと幅広の板が取れない。木口の元と末で割れ目の方向が違っていたりすることも
あるので、セットは慎重にしなければならない。
モミの丸太を乗せた台車が動き出した。太い丸太がキーンという高音とともにスライス
されていく。一枚ごとに円重さんは厚さを変えて切る。聞くと、用途によって厚さを変え
ているとのこと。今、切っているモミの木は神社のお札になる板らしい。秩父では明治、
大正時代の建物にモミが使われていることが多い。天然のモミは杉や松の代わりに建材と
して使われていた。切ったモミの板は一年間乾燥してから次の工程に進む。ここでも時間
がたっぷりとかかる。狂いやゆがみのない板を作るには長い長い時間が必要なのだ。
円重さんは62歳で酒をやめた。健康管理にはいつも気を配っている。外見を見る限り
は、とても73歳には見えない。10歳くらい若く見える。楽しく仕事をして、生涯現役
で働くのが目標だと笑う。このままいけば目標は達成できそうな気がする。
木の年輪から人生を教えてもらったともいう。若い時は苦労しなくちゃだめ、30代か
ら40代になれば自然と周りが開けて、自分の力で伸びることが出来る。「自分の力を出
すには時間がかかるんだいね・・」「子供は外に出さなくちゃだめだね」木が成長する過
程は、人間の成長と重なる。若い日の苦労に勝るものはない。良材もまた人に同じ。