山里の記憶58


おっきりこみ:千島光子さん



2009. 10. 29



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 秩父弁には独特の接頭語がある。意味を誇張し、強くする言葉の使い方で、やや乱暴に
聞こえる言葉でもある。一例を挙げると、おっぺす、おっかく、おっきる、おっちぬ、お
っとばす、つっかく、つっ切る、つっとばす・・・等々枚挙にいとまはない。     
 むかし「切りこみうどん」と言われていた料理は、鍋を火に掛け、うどんを切って入れ
ることからそう呼ばれていた。それが転じて「おっきりこみ」と呼ばれるようになったの
は、秩父弁の接頭語が使われ、うどんを省略されてそう呼ばれるようになったからだ。 
 手打ちのうどんを平たく切って煮る郷土料理で、寒い季節に喜ばれる小昼飯(こぢゅう
はん:仕事の合間に食べる食事)でもあった。                   

秩父市大滝の最奥、栃本集落の秋景色。 秩父の民宿の草分け「甲武信」。写真は別棟の湯殿。

 「おっきりこみ」の取材で伺ったのは、栃本の民宿「甲武信(こぶし)」だった。秩父
の民宿の草分けとなった宿で、千島兼一(かねいち)さんと光子(みつこ)さん夫妻が経
営している。今日は光子さん(74歳)に「おっきりこみ」の作り方や色々な話を伺うこ
とになっていた。                                
 玄関で挨拶をすると、光子さんはすぐに台所へと案内してくれた。すでに野菜も準備さ
れ、うどんはこねられていた。「いやあ、すぐに出来るようにと思ってねえ・・」と光子
さんが笑う。テキパキとした動きは、50年以上大きな民宿を切り盛りしてきた中で培わ
れたもの。とても74歳とは思えない機敏さだ。                  

 おっきりこみの野菜は全部自家製、光子さんと兼一さんが自分の畑で作ったものだ。今
日は大根、長ネギ、白菜、じゃがいも、にんじん、いんげん、五月菜、椎茸が準備されて
いた。いつもはこれに山の茸が加わるのだが、今年は夏に雨が少なかったため、山の茸が
出ていない。「ムキタケなんか入れると旨いんだいねえ・・」と残念そうに言う。   
 大根、にんじんはいちょう切り、長ネギ、白菜、五月菜、椎茸は細かく切り、じゃがい
もは大ぶりに切って鍋に入れ、たっぷりの水を加えて火に掛ける。昔は囲炉裏で大きな鉄
鍋を掛けたものだが、今日はガスの火で煮る。                   

うどんを切る光子さん。うどんは自家製の小麦粉でこねる。 鉄鍋でおっきりこみを煮込む。

 うどんは自分の家で作った小麦を製粉して作る。皆野の製粉工場や荒川の農協で必要な
分だけ粉に挽いてもらう。余った粉は冷蔵庫で保存する。うどん粉一升につき、塩ひとつ
まみを加え、水で固くこねる。耳たぶより固いくらいの方がうどんになった時美味しい。
また、煮込むことを考えても固めの方が味が染みこんで美味しくなる。        

 光子さんがこねたうどんの生地は、すでに麺棒で伸ばされて、打ち粉を打たれ、麺棒に
巻かれていた。光子さんは麺棒に沿って包丁を入れ、全体を切り分けた。今度は幾重にも
重なった生地を縦1センチの幅に切って、平たく太く短いうどんを作った。幅広の手打ち
うどんという感じだ。幅広なので、あまり長いと食べにくくなる。          

 鍋の野菜が煮立ったので、うどんを入れる。軽くかき回して、つゆの素、醤油、本だし
を入れる。「何グラムとかいうのは性に合わないんで、味付けは目分量なんだいね・・」
長年の経験と勘が光子さんの味を作り上げている。                 
「野菜を油で炒める人もいるけど、サッパリめが好きなんで油は使わないんだいね・・」
と言いながら菜箸で鍋をぐるりとかき回す。台所にいい香りが漂ってきた。うどんは透明
度を増し、湯気とともにグツグツという音が台所に充満する。            
「ここじゃあ、食べるのも何だいね、囲炉裏に運ぼうかね・・」と鍋を手に座敷の囲炉裏
へと移動する。昔ながらの囲炉裏だが、さすがに直接薪を燃すことはなく、大きな炭が赤
々と熾っていた。自在鉤に鍋をかけると、昔懐かしい囲炉裏の姿がそこに再現された。 

 昔の家はどこもみな玄関を入った奥に囲炉裏が切ってあり、そこで薪を燃していた。囲
炉裏には大きな自在鉤が下がり、そこに鍋を掛けてうどんを煮ていた。鍋の蓋を取ると白
い湯気のかたまりと美味しい匂いが立ち上がり、子供達は先を争ってうどんを引きずり、
ふうふう言いながら食べたものだった。ひざやすねが暖かくなり、昔の家の囲炉裏ばたを
思い出させてくれた。                              

 鍋からおっきりこみを丼に盛り、ふうふう食べながら光子さんの話を聞いた。光子さん
は皆野の出身で、結婚してここに来た。当時、兼一さんは山小屋「甲武信」を経営してい
たので、登山者の知り合いが多かった。西武線が開通すると東京からたくさんの登山者が
訪れるようになり、宿泊場所が無いので簡易宿所を始めた。そして、正式に民宿として営
業するようになったのが、秩父での民宿の草分けだった。光子さん25歳のときだった。
 そこから光子さんの目が回るように忙しい生活が始まった。当時民宿の開業は驚くほど
多方面から注目されていて、見学者が絶えなかった。山梨県などは県の観光課の肝いりで
大勢の視察団を送ってくるありさまだった。また、そういう人たちに限って実に細かい質
問などもされて困ったものだった。時には客よりも視察する人の方が多い時もあった。 

 西武鉄道は東京から大勢の客を運び、受け入れ先となった民宿に秩父駅で斡旋のクーポ
ン券(宿泊券)を発行した。クーポン券は手数料が西武に一割、換金する銀行で一割取ら
れ、実質8割のお金にしかならなかったが、客が向こうからやってくるということを考え
れば効率は良かった。評判を聞き、栃本だけでも12軒、秩父全体を考えると凄い数の民
宿が開業し、秩父に空前の民宿ブームが巻き起こった。秩父が観光地として認知される条
件が整ったのも、この時からだった。                       

 客は押しよせ、連日の満員が続いた。ボーイスカウトなどは栃本中の民宿に分宿するよ
うな状態だった。一度だけ招かざる客もやってきた。連休で忙しかったところ、お勝手ま
で来て手伝ってくれる気さくな客で「ちょっと出掛けてきますから・・」と言ってそれき
り帰って来なかった。荷物は残っていたが、見たら民宿のお金が全部無くなっていた。 
 プロの泥棒だった。その後、九州で捕まった泥棒が「甲武信」での犯行も自供したが、
もちろんお金は返ってこなかった。                        
 息子と娘もよく民宿を手伝ってくれた。「まったく可哀想なようだった」と光子さんが
言う。部活を終え、疲れ切った体で手伝う娘はよく言っていたものだった。「かあちゃん
、テストの点が悪かったら、民宿の手伝いをやってたからって先生に言っとくよ」   

 民宿を借り切って映画の撮影が行われたこともある。1955年に封切りされた「沙羅
の花の峠」という映画の撮影隊が「甲武信」を使った。山村聰が監督、主演で、当時日活
に入社第一作となった南田洋子が出演していた。兼一さんが懐かしそうに「南田洋子ちゅ
う人は細くって可愛い人だったいねえ・・」とほほえむ。光子さんは寝る時間もないほど
忙しかったが、近所の人の手伝いも借りて、寝ずに撮影隊の世話をやりきった。    
「よくやったいねえ私も、若さだったよねぇ・・」                 
 MBSのテレビドラマ「分水嶺」(関東ではTBSで放送:1977,9,7→11,30)も「甲武
信」を借り切って撮影された。主演の近藤正臣は、気さくに台所に入ってきてつまみ食い
したりする人だった。香山美子や梶芽衣子などが熱演したドラマには、後ろ姿で兼一さん
も出演している。兼一さん、光子さんにもいい思い出となった撮影だった。      

囲炉裏で話を聞きながらおっきりこみを食べる。 いろいろな話をしてくれた兼一(かねいち)さん。

 栃本で12軒あった民宿も、今営業しているのは2軒だけになってしまった。囲炉裏端
でおっきりこみを食べている時に、光子さんがぽつりと言った言葉が印象に残った。  
「何もかも捨てて犠牲にしないと、この仕事は出来ないやねえ、客がいると二十四時間気
を使うし、同窓会には一度も出たことないもんね。子や孫にはやらせたくないよ・・」 
 14年間寝たきりだったおじいさんの世話、3組の年寄りを看取った光子さんは凄い。
「愚痴は言わないよ、言ったってしょうがないからね。でも、この先を考えるとね・・」
「でも、いろんな人に出会えて、民宿やってて良かったなあって思うことも多いんよ」 

 話を聞きながらもずっとおっきりこみを食べていた。食べても食べても減らないので困
ってしまった。うどんは煮るごとに柔らかくなって膨張する。時間がたつにつれ量が増え
てくるのだ。どんぶり四杯まで頑張ったのだが、もうダメだった。兼一さんも光子さんも
笑いながら「もう少し食えるだんべぇ」「うどんだから大丈夫さあ」と、拷問のようなこ
とを言う。美味しい取材は満腹でギブアップとなった。