山里の記憶
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昔の渓流釣り:廣瀬利之さん
2007. 5. 22
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謹厳実直という言葉がまさにピッタリの廣瀬利之さん(84歳)から、昔の山釣りに
ついて話を伺った。利之さんは大滝の生き字引と言えるような記憶力旺盛な人で、瀬音
の森の東大演習林勉強会の夜学に講師としてお招きした事もある人だ。その時も正確な
記憶と豊富な話題に驚かされたものだった。話題が多岐に渡るのは楽しいのだが、今回
は山の釣りに限って話を聞かせて頂いた。ご自宅の炬燵に座らせて頂き、昔の話を聞か
せてもらうのは、とても楽しい時間だった。
利之さんは子供時代から足が達者で、小学6年生の頃には栃本→十文字峠→三宝山→
甲武信岳→下山というコースを営林署の人と競争して1日で歩いた事があるそうだ。当
時そのことが話題になり、新聞にも載ったそうだ。およそ30キロくらいの距離になる
そうだが、普通の道ではないし、山慣れた大人でも1日で歩ける距離ではない。私から
見ると達者とかいうレベルではなく、まるで天狗か仙人かの話としか思えない。
その達者な足を使って若い頃から釣りに行っていたそうだ。月に3〜4回は釣りに行
き、たまに山中で泊まる事もあった。栃本から暗いうちに提灯を持って歩き出し、4時
間で柳小屋に着いたというからその健脚ぶりに驚く。
大滝、栃本集落から見る荒川の源流。
川の流れは昔と変わらないが、魚は少なくなった。
昭和20年代にはまだ山釣りをする人は少なく、いくらでも岩魚が釣れたそうだ。昭
和30年代後半から釣りブームで釣り人が増え、徐々に釣れなくなってきたとのこと。
大きな魚の記憶では、40センチくらいの岩魚が上限だったそうだ。中でも記憶に残
っている魚が2つあって、一つは曲沢(まがりさわ)で何回掛けてもハリが伸びてバレ
てしまう大物で、結局自分では釣れず他の人が釣ってしまった岩魚。釣った人に見せて
もらったところ45センチの大岩魚だったそうだ。
もう一つはこれも結局釣れなかったのだが、千丈の滝下の淵で掛けた20センチくら
いの岩魚に向かって襲いかかってきた大岩魚。背びれを見せて追い回す姿はゆうに50
センチはありそうだった。その後何度もその淵に通って狙ってみたが結局釣れなかった
そうだ。かつて奥秩父にはそんな岩魚が棲んでいたのだ。
昭和20年代の釣り支度について聞いた。服は普通の作業着で脚絆(きゃはん)で膝
下を固め、足には地下足袋を履き、その上から草鞋(わらじ)を付けた。草鞋は必ず濡
らしてから付けた。草鞋は自分で編むのだが、布を裂いて混ぜたりして長持ちするよう
工夫をしたそうだ。1日履いても減り具合でまだ使えるものはダメになるまで履いた。
魚篭(びく)は竹で編んだものを使っていた。魚篭の無い時や急に入れ物が必要にな
った時は、山の中でサワグルミの皮を使って作ることもあったそうだ。サワグルミの皮
を25センチ×60センチくらい縦にはぎ取る。皮はクルリと内側に丸くなるので、そ
れを二つ折りにしてツルで上と下を縛って腰ひもを付ければ出来上がり。使い終われば
焚き火で燃せるという優れものだった。
竿は篠竹の4〜5本つなぎの竿をよく使ったが、それ以前では3mくらいの1本竿を
二つに切り、トタン板で作った「つなぎ」で繋ぐ竿が具合良かった。ヤスなども同じよ
うに3mくらいの柄を二つに切り、繋いで使っていた。ヤスは3本刃と4本刃があり、
刃の長さは15センチくらいあった。刃には返しの付いたものと付いてないものがあっ
た。返しの付いたものは肉をえぐり、魚が傷みやすかったので、これを敬遠するむきも
あった。
餌入れは空き缶でボロ靴下を蓋にして使っていた。中に入れる餌は沢虫(川虫)で、
湿った芝やコケを入れておくと長持ちした。沢虫は釣りに行く前の日に近くで捕ってお
いて使った。餌入れにメンパ(ヒノキで作った弁当箱)の小さいのを使っている人もい
た。ミミズ餌は梅雨明けから使ったが、沢によって釣れる沢と釣れない沢があるので使
いずらかった記憶がある。例えば赤沢谷では釣れるが本流では釣れなかった。
廣瀬さんが40代のころ釣りをしている写真。
サワグルミの皮を使って魚篭(びく)を山の中で作る。
弁当は基本的に握り飯で、塩むすび、海苔むすびなどが一般的だった。あとは漬け物
を付けるくらいで済ませていた。握り飯の具に梅干しだけはタブーで使わなかった。理
由はなぜか分からないが梅干しを食べると魚が釣れないと言われていた。梅干しを見る
のも、梅干しの話をするのもタブーだった。これは狩猟の場でもそうで、さらに狩猟の
場合は「猿」と「兎」の話題もタブーだった。
雨具の合羽は30年代に入ってから出来たもので、その前は雨が降ってもビニール風
呂敷を背中にかける程度で済ましていた。当時あった雨具の蓑(みの)は嵩張って釣り
には向かなかった。
釣った魚は傷まないように午前中に一回、帰り際に一回まとめて腹を出して魚篭(び
く)に入れた。魚篭(びく)の底に草の葉を敷いておくと持ちが良かった。魚篭(びく
に入りきらない時は袋に入れて背負っていたリュックサックに入れて運んだ。
注文を受けて釣りに行くこともあった。大輪(おおわ)や秩父の飲食店から注文を受
けたり、病気の人から滋養強壮にといって頼まれたりした。25センチくらいの岩魚を
揃えて、竹串に刺して囲炉裏で焼き、30センチくらいのブリキの缶に詰めて送ること
もあった。また、串焼きのまま「べんけい」という麦わら造りのさんだわらに刺したも
のや、5匹くらいを串のまま剣山のように作った草筒に突き立てて見映えを良くして箱
に入れて送ったこともある。生のものをそのまま送ることはなかった。
子供の頃はガラス箱とヤスで岩魚を捕った。カジカもよく捕った。カジカ釣りという
のはヨモギの株を引き抜き、その中の茎1本と長い根1本だけを残して取り去り、根を
輪っかにしてそれでカジカを引っかける遊びで、小学生時分には夢中になったものだ。
浅い川でカジカもたくさん居たが、それを見ながら引っかけるはなかなか難しく、楽し
いものだった。
大人になって夜の網打ちをするようになった。その頃は本当に魚捕りが面白く、役場
の仕事が終わったあと、4キロの投網を担いで柳小屋まで入り、真っ暗な中で網を打っ
て岩魚を捕り、その夜のうちに帰って来て、翌朝そのまま役場に行ったりしたものだっ
た。ずいぶんと無茶な事もしたが、好きだったから出来たことだと思う。
昭和25年頃から夜に網を打って捕った岩魚をヤカンに詰めて上流に運んで放流する
ようになった。金山沢や槇の沢(まきのさわ)や真の沢、股の沢などずいぶん放流を繰
り返したものだった。魚のいなかった沢でも釣れるようになってきたのは、その頃の魚
が定着したためだと思っている。
放流について詳細に記録したノートを見せてくれた。
川を指さして「今でも気が向いたら、釣りに行ってるよ」
一泊で槇の沢(まきのさわ)に入り、ローソク岩の穴に泊まったことがあった。焚き
火で濡れた地下足袋を乾かしていたのだが、翌朝起きたら何と乾かしていた地下足袋が
片方燃えてしまったことがあった。この時は難儀した。幸い草鞋(わらじ)は無事だっ
たので、素足に草鞋だけで帰ってきたが大変だった。
ほとんどの釣りが一人だったが、幸いなことに怪我などしたことは無かった。怪我を
しないように細心の注意を払っていたと思う。酒は強い方だったが、山に入って酒を飲
むことはなかった。
利之さんの話はどこまでも続くが、狩猟の話などはまた別の場所で取り上げたいと思
っている。120キロの熊を背負って運んだ話とか、昔の鉄砲の話だとか、これもまた
魅力たっぷりの話が満載でじつに興味深い。狩猟を一緒にやっていたという扇家山荘の
主人、山中将市(まさいち)さんが利之さんの事をこう言っていた。
「利之さんは本当に真面目に釣りをしていたいねぇ・・・」
利之さんは84歳になった今でも年券の更新は怠らず、時々近くの川で釣りをしてい
るそうだ。いつまでも元気で、我々にいろいろな事を教えてもらいたいと思う。