山里の記憶60


家を建てる:出浦市郎さん



2009. 11. 10



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 小鹿野町・津谷木(おがのまち・つやぎ)耕地、通称津谷木のお天狗様と呼ばれる木魂
(きむすび)神社のある耕地、子ども歌舞伎が演じられる耕地としても有名なところだ。
 11月10日、ここに腕のいい大工さんがいると紹介されて、話を聞きに行った。その
大工さんが出浦(いでうら)市郎さん(71歳)だった。              
 約束した時間より早く着いてしまい、工務店の事務所で市郎さんが来る前に奥さんの道
江さん(65歳)といろいろな話をしていた。道江さんはとても気さくな人で、昔の話か
ら畑仕事の話まで話題が広がり、楽しい時間を過ごさせてもらった。約束の時間になって
、市郎さんが戻ってきたので、挨拶をして話を聞かせてもらった。          

 小鹿野町でも腕が良いと評判の市郎さんだが、子供時代の話を聞くと、本当に苦労して
今の技術を身につけたことが分かる。市郎さんの両親は機(はた)屋に勤めていて、二人
が結婚する前に市郎さんが生まれた。当時の感覚では大変なことで、家もなく「みじめな
生活だった」と絞り出すように言う。中学三年まで八畳一間で親子兄弟が暮らしていた。
「ほんとに、ちっとんべえの場で育ったんだいね・・・」              
 中学を出て15歳で川越のミシン工場の見習いに行った。店舗兼修理工場のような店だ
ったが、放蕩な主人の行状から倒産状態になってしまい、早々に小鹿野に戻ってきた。畑
も無かったので、よその家の畑仕事を手伝うような暮らしだった。          

 転機が来たのは母親の義兄が大工で、小屋作りを手伝ったことだった。親方に勧められ
て、大工の見習いになることができた。市郎さんは夢中で働いた。仕事を教えてもらえる
「親方勤め」をすると、一日50円もらえた。弁当を持って行けば一日百円もらえるのだ
が、弁当を持っていくことが出来ず50円をもらった。この50円を母親が喜んでくれた
のが嬉しかった。一日働いて家に帰ると、今度は建具の仕事をした。寝る時間も惜しんで
働いていると「体を壊すから早く寝ろ!」と母親に怒られたものだった。       

居間の炬燵に上がって、お二人に色々な話を聞いた。 大きな工務店を見せてもらった。一代で信用を築いた市郎さん。

 16歳から20歳まで五年間親方の元で働いたのち、市郎さんは独立する。20歳の時
には自分で仕事を取れる自信があったという。普通は一年間のお礼奉公が必要なのだが、
親方も市郎さんの境遇を考えてくれて無理は言わなかった。最初は床の貼り直しや増築な
どの簡単な仕事から始め、どんな仕事でもえり好みなどしなかった。         
 親方や先輩が電気カンナや丸ノコを買うと言っているころ、市郎さんは車を買って仕事
の行動範囲を広げることを選んだ。当時で40万円は大金だったが、母親がお金を出して
くれた。車はスズキのキャリー、仕事の大きな相棒になった。22歳の時だった。   
「体を惜しまず働いたけど、巡り合わせも運も良かったいねえ・・」と述懐する。時代の
巡り合わせが市郎さんの背中を押した。時代はまさに大きく変わろうとしていた。   

 当時はまだ麦わら屋根の家が多かった。その多くがトタン屋根に変わる時代だった。収
穫が終わり、農閑期になると農家の普請が始まる。麦わら屋根が快適なトタン屋根に変わ
る光景を見て、われもわれもと麦わら屋根がトタン屋根になっていった。       
 当時の家の柱には栗の木が使われていることが多かった。この先が曲がった柱を金輪継
ぎで継ぎ足し、屋根をかける。十八尺の高さの柱を削って継ぎ足す作業は大変だったが、
大工の実績を積むには最高の舞台だった。                     
 農協の仕事で、有線放送の小屋作りをしたときのことだった。その仕事ぶりを組合長が
じっと見ていて、その後働きぶりを認めてくれ、事あるごとに市郎さんを推してくれた。
「あれがでかかったいねえ。何の後ろ盾も無かったけど、ちゃんとした仕事をすれば見る
人は見ていてくれるんだと、つくづく思ったいねえ」と、懐かしそうに振り返る。   

 順調に仕事が増えていた26歳の時、市郎さんは般若耕地から20歳の道江さんを嫁に
迎えた。顔見知りで、仕事も世話になったこともある家から迎えた花嫁。市郎さんの方か
ら申し込んで一緒になった。昭和三十九年の事だった。               
 結婚してますます市郎さんは仕事に打ち込んだ。道代さんは昔を思い出すように言う。
「ほんとに仕事の事しか考えてない人だったいねえ・・」「でも、旅行なんかもあちこち
連れてってもらったし、そう思えばいい人と一緒になったんかさあ・・」       
 男の子三人に恵まれ、充実した結婚生活だった。長男と三男が大工の道に進み、今市郎
さんの下で働いている。親子三人で力を合わせ、今までに150軒の改築・新築を請けお
った。毎年お世話になった家にはカレンダーを配り、感謝の思いを伝えている。    
 ここ津谷木耕地は43軒のうち7軒が大工さんで、競争率が異常に高い。そんな中でも
耕地内40軒の家から注文を受けているのだから、この一家がどれだけ信頼されているか
が分かろうというものだ。                            

 昭和四十年代に入ると、今度は台所の改築が主流になった。折からの近代化ブームに乗
り、農協が「近代化資金」を貸し出すという流れも拍車をかけ台所改築の仕事が増えた。
かまどで薪を使う旧態依然としていた山村の台所が、ガス台を備えたキッチンへと変わっ
ていった。農協から市郎さんの見積書のコピーが出回り、それも注文を増やす事につなが
った。大工仕事はまさに時代の波に乗った。                    
 農協の近代化資金を使って屋根を直す人もいた。この貸付金は年一割二分という高金利
で、中には返済不能になる人もいた。日本全体が地殻変動しているような時代だった。山
村の激動ぶりも半端ではなかった。                        

 話が一段落して、現場を見させてもらうことになった。一軒は市郎さんが70歳の時に
持っている全てを注ぎ込んで建てた数寄屋造りの住宅。一年がかりで墨付けから材料選び
まで市郎さんが全部やった。「これなら良かんべえ・・・」と、自分の力を全部出せたと
思う家造りだった。もう一軒は、現在建築中の倉を改築している建物。どちらも小鹿野町
内にあるので、市郎さんの軽トラに同乗して向かう。                

70歳で自分のもてる全てを注ぎ込んだという数寄屋造りの住宅。 倉を改築している物件の天井を見上げる市郎さん。

 美しい数寄屋造りの服部邸に到着した。持ち主に挨拶をして建物の内外を見させてもら
う。無垢の木を多く使った趣味のいい造りになっている。さすがに腕が良いと言われてい
る人の仕事だ。木目を上手く活かした床や天井、土塗りの壁がやすらぎの空間を作ってい
る。こういう家で生活できたら本当に快適だと思う。                
 建築の知識が少ないので、この形を何と呼ぶのか分からないが、屋根付きの塀が素晴ら
しい。土壁の色と材木の色がとてもマッチしており、全体が軽やかな造りで、屋根も重す
ぎず軽すぎず、とても趣味がいい。市郎さんがこの塀を作ってから、違う場所で同じよう
な塀を作った人があるそうだ。こういう仕事の業界内での情報伝播は速い。      

 軽トラに乗って次の現場に向かう。こちらは倉を解体した材料を使って組み上げた建物
で、新築の家の客間になる建物だ。古い倉に使われていた栗の柱や松の梁が圧倒的な存在
感を持って迫ってくる。竜骨のような梁が全部見え、壁の柱は上部がうねるように曲がっ
ている。真っ直ぐな杉や檜では絶対に出ない面白みがあり、施主もそれを喜んでいるとの
こと。全体の造作が終わり、細部の仕上げに入っているところだった。        
 見学中にドアの金具を見に来た職人と仕上げの打ち合わせになり、横で耳を傾けて話を
聞いていた。市郎さんは安易な妥協をせずに、細部にわたって細かい指示を出していた。
打ち合わせを終えた市郎さんが言った。「ひとつひとつが真剣勝負なんだいね」    
 今回のように倉を建て直す仕事など、古い建物の仕事を受けることが多くなってきたと
いう。息子さんに新築物件を任せられるようになり、人があまりやりたがらない仕事をや
るようになったという。「古りい建物を直すんが一番自分の得手なんかもしんねえねぇ」
 腕のいい職人と組んで古い建物を直す。神社やお寺さんの仕事も多い。中でも十六様と
呼ばれている日本武(やまとたける)神社の仕事は多かった。            

松のがっしりした梁がまるで竜骨のよう。栗の柱はうねっている。 入り口の引き戸をどうするか、打ち合わせ中の市郎さん。

 家に帰って炬燵に入って話の続きを聞いた。十六歳から働いている市郎さんにとって、
息子達の働きぶりはどう映っているのだろうかと水を向ける。            
「上の子は仕事を自分で探して動くんがいいやいねえ。下は器用だけど『俺がやる・・』
っていう部分が無くってねえ・・」つい自分がやってきた事と比べてしまう親方の言葉が
出た。若い人が自分と同じ事が出来ないのは当たり前の話で、そんな事を言いながら笑い
合った。腕一本で自分を磨いてきた自信が背中に溢れているのだから、その後を追う息子
も大変だ。でも、追いかけていればそのうち超える時も来る。幸せな親子だと思った。