山里の記憶
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ワラの飾りもの:坂本覚(がく)さん・ミツヨさん
2009. 12. 9
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両神(りょうかみ)にお正月用の飾り物をワラで作っている人がいると聞いて取材にで
かけた。飾り物を作っているのは、薄(すすき)の常木(つねぎ)耕地に住んでいる坂本
覚(がく)さん(82歳)と奥さんのミツヨさん(81歳)のご夫婦だった。
ご自宅に伺うと中に誘われ、炬燵でお二人にいろいろ話を聞いた。覚さんも、ミツヨさ
んも八十過ぎとは思えない元気ぶりで、話がどんどん広がっていった。
覚さんはかれこれ20年近く、ワラでお正月の飾り物を作って、直売所などで販売した
り、知り合いに配ったりしてきた。きっかけは、当時の両神村の産業課で行われたワラ細
工の講習だった。そこで、しめ縄、お飾り、宝船などを習った。最初はあくまで趣味だっ
たのだが、出来上がりが好評だったため「こんだけ出来るんだったら直売所で売ったらど
うだい」という話になり、直売所で販売することになった。
講習を受けた人のうち、3人がそれからもワラの飾り物を作り続けるようになった。今
でも両神の総合会館には当時からの作品がいっぱい残されている。
もう10年以上前の話だが、当時のTBSテレビ「ジャスト」という番組で『宝さがし
』というコーナーがあり、そこに取り上げられたこともある。実際に大きなワラの宝船を
作ってスタジオに持って行った。その時の反応は凄くて、その日のうちに岐阜県の人から
「宝船が欲しい」という電話が来たほどだった。その年はテレビの影響もあって大小合わ
せて120個もの宝船が売れたそうだ。ミツヨさんも「あんときゃあ忙しかったいなあ、
えら電話があったったいなあ」と懐かしそうに笑いながら言う。
一躍ワラ細工で有名になった覚さんは、その後宝船作りの講習を頼まれて、公民館で十
年間くらいやった。また、国民宿舎に夏休みの学習で宿泊していた神奈川県の小学生60
人に、ワラの亀作りを教えたりもした。
ワラ細工の材料になるワラについて聞いてみた。材料になるワラは普通の稲ワラではな
く、ワラ細工用に栽培しているものを使う。今は吉田と黒谷(くろや)に栽培農家があっ
て、そこから購入する。ワラ細工用のワラは青くなければいけないので、栽培にも乾燥に
も、保管にも気を使う。まだ青い稲を刈り取って乾燥させるのだが、天日乾燥では色が黄
色くなってしまうので、乾燥機で乾燥させたものが品質が良い。
ワラは日に当たったり、雨に当たったりすると色が変わる。だから細工用のワラを栽培
する人は天気に左右される。刈る時に夕立が来たりすると最悪で、雨に当たると青いワラ
も黄色くなって買い手がなくなる。また、買ったあとで保管するのにも気を使う。覚さん
は8月に買って、倉の二階でブルーシートを掛けて湿気ないように注意して保管する。
炬燵でいろいろ話を聞いた。まずは作品を見てもらっているところ。
家の裏手に作業小屋があり、そこへ案内してくれる覚(がく)さん。
宝船の帆を作るというので、作業小屋へ移動して作業を見させてもらった。材料のワラ
が部屋の隅に置かれていて、新聞紙が掛けられていた。正面の棚の上には出来上がったワ
ラの飾り物が積み重ねられていた。亀、ツル、俵、組俵、宝船などが重なっていた。
作業小屋は日が当たって暖かく、風もなかったので戸を開けて明るくして、作業を見さ
せてもらった。覚さんは帆用に揃えたワラを出してきて、説明しながら作って見せてくれ
た。宝船の帆はワラの中でも一番いいところだけを使う。節を取って、太さ、長さも揃っ
たものを使って帆を作る。「やっぱり、見た目が良くなくっちゃねえ、一番目立つとこだ
から・・」と覚さん。長い材料を持つときも、折れないように気を配る。
普通は帆なら帆だけ、舟なら舟だけ、俵なら俵だけ数を作り、最後にまとめる形で仕上
げる。その方が効率がいいからだ。一つだけ作るとなると、帆だけでも作るのに1時間、
全体では5時間くらいかかる。覚さんの手がリズミカルに動き、帆の形が出来上がってい
く。そんな作業をしながら覚さんはいろいろな話をしてくれた。
ワラは少し湿らせてある。ワラぞうりやワラジ作りの時のように、柔らかくするために
ワラを叩くことはしない。「先生から『しめ縄は叩くんじゃねえ』って言われてるんだい
ね、神聖なもんだから、叩かないでそのまんま使うんだいね」
乾いたワラを扱うと手が滑る。縄をなう時なら両手につばをつけて滑り止めにするとこ
ろだが、それもしない。濡れタオルが置いてあり、それで手を湿らせる。これも先生から
『神聖なもんだから、手つばきをしちゃあいけない』と教わっている。
「しめ縄を作るときゃあ、昔は心身を清めて作るもんだったいねえ。飾りもんだって同じ
だいね」と言う。話しながらも作業は進む。覚さんはマイペースで淡々と指を動かす。
「早く作りたいって思っても駄目なんだいね。見えるもんだからねえ。まるで見えちゃう
んだから、駄目なところは作り直すくらいでないといけねえやね・・」
先生は一通り教えるとあとは自分で工夫しなさいと言っていた。覚さんは自分なりに工夫
して、それまで竹を使っていた帆柱をワラで編んだ柱に変えた。先生はそれを見て「いい
ねえ、これのほうが縁起物らしいね」と言ってくれた。
作業小屋の台には出来上がったワラの飾り物が積み上げられていた。
材料のワラは新聞紙を掛けて日に当たらないようにしてある。
帆柱を補強する横ワラを今は光る針金で止めているが「こういうのも、『全部ワラでや
ってくんねえかい』って言う人もいるんだいね」「この紅白の紐があるだんべえ、これも
ワラで作ってくれいなって言われたことあって困ったったいね」
細かい手作業が続く。ワラがきれいに揃った宝船の帆がやっと形になってきた。
「友達にこれが好きな人がいてねえ、毎年五つずつ宝船を作ってやったもんだいね」
「頼まれて作るときは、不思議なもんで、頼まれた人の顔がずっと浮かんでるんだいね」
「作ってる間中ずっとその人の顔が浮かんできて、その人のことをずっと考えてらいね、
不思議なもんだいね」そんな覚さんが作った宝船だからこそ、毎年欲しいという人が絶え
ないのだろう。その人のことをずっと考えながら作るのだから、手抜きなどありえない。
直売所で販売する宝船や他の飾り物を作る時も、手は動いていて、頭の中では「どんな
人がこれを買うんだろう」「どんなところに飾るんだろう」とそんな事ばかり考えている
のだという。以前、病気で入院しなければならなくなって、今年は作れないと常連さんに
言ったことがあった、その時の常連さんの言葉を今でも覚えている。
「ろくな事が出来なくったっていいんだよ。俺はおめえが作ったもんを飾りてえんだい」
そんなうれしい言葉に励まされて、覚さんはワラの飾り物を作り続けてきた。
宝船の帆を作っている覚さん。手がリズミカルに動いてワラを編む。
覚さんが作ったワラの馬。十二支をワラで作るのが夢だそうだ。
気になっていたミツヨさんの存在について聞いた。「ああ、20年ずっと、俺が作って
おばあが飾りもんを付けるんだいね。それはずっと変わんないねえ」そう、ミツヨさんは
飾り物を付ける係だった。ワラの飾り物つくりを始めた時からずっと分業していた。だか
ら今日はミツヨさんの出番がなかったのだ。帆が出来上がったので、休憩ということで家
の炬燵に戻って話を聞くことにした。ミツヨさんにもいろいろ聞いてみたかった。
ミツヨさんは山向こうの三田川・河原沢から嫁に来た。29歳の時だった。その時覚さ
んは30歳。「売れ残り同士だったんさあ」と覚さんが笑う。確かに当時としては遅い結
婚だった。覚さんには病気持ちの母親がおり、そういう所に嫁に来る人はなかなかいなか
った。それでも縁があってミツヨさんという伴侶を得た。当然ミツヨさんは覚さんの母親
のことは知っていた。「両神林産加工の社長が車を出してくれて荷物を運んだんだいね」
昭和32年の結婚式だった。
当時はみんな貧乏だったし、みんな大変な暮らしだった。覚さんとミツヨさんも例外で
はなかった。急死した姉さんの娘を引き取って育てたり、小森のおばあさんまで面倒見た
りしなければならない生活だった。覚さんは製材所に努めていたが暮らしはずっと貧しか
った。ミツヨさんも多くを語らないが、大変な暮らしだったはずだ。
覚さんが言う。「俺が一番不幸だと思ってた時期もあったいね・・・」
「いつだったか、ふと、みんなの前でそんな事を言ったら『俺だってこうだ』とか『俺だ
ってそうだ』とか、みんなそんなに変わんない生活だった事が分かったんだいね」
今では老人会の会長をして、俳句をたしなむ覚さん。こんな句を詠んでくれた。
『 人並みに 生きて悔いなし 天高く 』
人並みに生きたと言えることが幸せだと覚さんは言う。その横でニコニコ微笑みながらミ
ツヨさんがポツリとつぶやいた。「ようよう八十まで生きて幸せだいね・・」
「えら苦労したけど、今が幸せだいね・・」