山里の記憶63


手打ちうどん:浅見(あざみ)すみ子さん



2010. 1. 16



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 昨年秩父で展覧会を開催したおり、絵を見に来た人で「手打ちうどんなら出来るよ」と
言ってくれた人があった。今回その人と連絡が取れ、秩父の「手打ちうどん」を取材する
ことができた。取材に伺ったのは小鹿野町和田地区の浅見(あざみ)すみ子さん(85歳
)のお宅だった。すみ子さんの家は日当りの良い山裾に広がる畑の中に建っている。  
 挨拶をして上がらせて頂き、仏壇にお線香を上げさせてもらい、炬燵でいろいろ話を聞
かせてもらった。昨年暮れにご主人を亡くし、今は娘さんと二人で暮らしている。   

 昔から秩父では「もの日」には赤飯とうどんが作られた。普段の日でも夕飯はうどんと
いう家が多かった。養蚕の裏作で小麦を作る。田んぼが少なかったこともあり、自然とう
どんが主食の一部になっていた。全ての家にこね鉢があり、パスタマシンのようなうどん
こね機があり、ほぼ毎日うどんが作られていた。私も高校を卒業するまでうどんこねをや
らされ、三年の時に初めておふくろから「これなら大丈夫だ」とお墨付きをもらったこと
を思い出す。すみ子さんは昔から機械を使わず、めん棒で手打ちうどんを作る本格派で、
子ども達も「母ちゃんのうどんは旨い」と自慢する。                
 生うどんをそのまま煮込む「おっきりこみ」もよく作った。大きい鍋でたくさん作り、
翌日に温め直して食べるのが旨かった。手伝いに来てくれたおじさんに「おっきりこみが
あるんだけどねえ・・」と言うと「それじゃあ、もう一日助(す)けんべえかね」と言っ
て、一日延長して手伝ってくれたこともあった。                  
 
 あいさつ話が一段落したので、すみ子さんに「うどんぶち」の実技を見せてもらう。昔
は自分の家で作った小麦を挽いて粉にしていたが、今は買ってきたものを使っている。小
麦粉一升を大きなボールに入れた。長い間、木のこね鉢を使っていたのだが、ヒビが入っ
てしまったので、今はステンレスのボールを使っている。              
 小麦粉一升に対して小さじ2杯くらいの塩を入れ、水を加えてこねる。しばらくこねる
と生地がまとまってきた。「木鉢に粉をつけとくようじゃだめなんだいね・・・」すみ子
さんはこねながら色々話してくれた。「昔はえら作ったもんだけど今はハァ、一升くらい
だいねえ・・・」話しているうちに生地がこね上がり、丸くまとめられた。      

一升のうどん粉をこねるすみ子さん。こねる手つきも慣れたもの。 4本もめん棒がある。長いものは大量のうどんを作っていた時のもの。

 こね上がった生地は冬は一晩くらい、夏は半日くらいビニールに包んで寝かせ熟成させ
る。空気に触れると固くなるので、隙間のないようにビニールで包む。ラップで包む人も
いる。生地は冷蔵庫に入れずに常温で寝かせる。                  
「寝かせた方がうどんがのめっこくなるんだいね」とすみ子さん。寝かせる事でコシも出
て、喉ごしもツルリとしたうどんになる。私が子供の時は生地を寝かせないで、そのまま
うどんに作っていたが、美味しいと言われるうどんはこうして寝かせていた訳だ。こねた
生地はビニールにくるまれて台所の隅に置かれた。ここからはすみ子さんが昨夜こねてお
いてくれた生地を使ってうどん作りを進める。                   

 母屋から庭先の「こなしや」と呼ばれる納屋に移動する。母屋でうどんぶちをすると粉
だらけになってしまうからだ。すみ子さんはめん棒を四本も持ち出した。中の一本は紫檀
で作られためん棒だそうな。長いものは昔たくさんうどんを打った時に使ったものだ。 
 こなしやにはブルーシートが敷かれ、その上にのし板が置かれていた。すみ子さんは持
って来た丸い生地をのし板のうえに乗せ、その上にビニールをかぶせ、タオルを置いた。
何をするのか?と見ていたら、スッと履物を脱いでタオルの上に乗って足で踏み始めた。
「最初はこうやって足で踏んで伸ばすんだいね」「こねる時に踏む事もあるけどね・・」
長いめん棒を杖にしてゆっくり回るように踏んで伸ばす。遠くを見つめる視線は、何だか
仙人のようだ。                                 

 すみ子さんが降りてビニールを取ると、丸く広がった生地がそこにあった。打ち粉を振
り、めん棒でそれをクルクルっと丸め、両手で左右に伸ばし始めた。その鮮やかな手さば
きはじつに見事なものだった。リズミカルに両手が動き、生地が大きく丸く伸ばされてい
く。生地を広げ、打ち粉を打ち、めん棒で丸めて伸ばし、また広げて打ち粉を打つ。とて
も85歳とは思えないキビキビした動作だ。素晴らしい。              
 めん棒に丸めた生地を蛇腹に折り畳みながら外し、それを包丁で切り始めた。大きな包
丁がサクサクとたたまれた生地を刻む。細くきれいな麺がどんどん出来上がっていく。こ
ま板は使わずに普通に指をガイドにして切る。多少のズレが手打ちうどんらしいばらつき
になる。切り終わった麺を束ねて振ると、細くて長い手打ち麺が出来上がった。    

均一に薄くなるようにめん棒でのす。こんなに大きくなった。 庭のかまどで豪快に茹でる。吹きこぼれるのを差し水して茹でる。

 庭にはスチールのカマドが置かれ、大きな釜が湯をたぎらせている。蓋を取ると大きな
湯気の塊が立ち上がり、周囲が真っ白になる。打ち立ての麺を運びそのまま釜に入れる。
吹き上がる釜に差し水をしながら茹であげ、竹製のすいのう(水嚢:柄付の丸い竹ザル)
で水を張ったバケツに取る。                           
 水道で水を換えながら晒し、洗って、ひとつまみずつ丸めてザルに麺を並べる。麺はツ
ヤツヤして日射しを反射し輝いている。ここまでの動きにまったく淀みがなく、自然に流
れるような作業に感心するばかり。旨そうな手打ちうどんがザル二枚分出来上がった。 

 家の中ではツユが作られ、ネギが刻まれ、青菜が茹でて刻まれ、天ぷらが揚げられてい
た。娘さんが準備してくれて、あとは食べるだけになっていた。すみ子さんが大きなすり
鉢とすりこぎを出して胡麻をすり始めた。「このすりこぎは、おじいさんが農協で八百円
で買ってきたもんなんだいね。平成4年て書いてあらいね・・・」すり終わった胡麻を器
に入れてテーブルに乗せ、昼食の準備がととのった。                
「さあさあ、食べてくんないね、いっぱいあるから」と勧められ、ツユの入った大きな椀
を手にして、すみ子さんの手打ちうどんを食べ始めた。               
 ツユに浸けたうどんを口に運ぶ。噛むと麺の弾力が歯を押し返してくるような感触と粉
の香りがじつに美味しい。のどごしもツルリとしていて、まるで専門店で食べるうどんの
ようだ。「すみ子さん、旨いですよこれ!」「ほうかい、そりゃ良かった」すみ子さんが
満面の笑みで応える。天ぷらも、青菜も、刻みネギも、すりごまも美味しい。夢中になっ
てバクバク食べてしまった。打ち立て、茹でたてのうどんは本当に美味しい。     

バケツの水に晒し、水道で洗ってザルに取る。うどんの出来上がり。 テーブルに並んだうどん、天ぷら、青菜、刻みネギ、つゆの椀。

 食べ終わって、お茶を飲みながらすみ子さんに昔の話を聞いた。すみ子さんは両神の柏
沢耕地で生まれた。小さいときから元気で、習字が得意な子どもだった。尋常高等小学校
を出るとみんな製糸工場へ年季奉公に出る時代だったが、ちょうど戦争が始まった時で、
卒業後に勤労奉仕に出なければならなかった。                   
 何もない時代だった。五人兄弟の長女だったすみ子さん。当時は上から順番に結婚する
のが慣わしで、すみ子さんは21歳の時に要一さんと結婚してこの地に来た。知り合って
半年の恋愛結婚だったが、結婚するまで手も握らなかったという。一緒にお祭りに行って
も、別々に歩くような恋愛だったと胸を張る。                   

 子どもの頃から丈夫だったすみ子さん。未だに一度も入院したことがないという。4人
の子どもに恵まれたが、お産婆さんを呼んだのは一度だけで、三人は自分の力で産んだと
いうのには驚いた。姑さんの手助けだけで出産を済ませたというのだから凄い。    
 一度などは、農作業の途中で産気づき、そのまま家で出産した。さすがに農作業を一緒
にしていた隣の畑の人も驚いたそうだ。「まるで犬か猫みてえだって笑ったんさあ・・」
と娘さんが笑う。健康だったことが一番だったと感謝している。           
 何もない時代、嫁として努めるのは大変な時代だったけれど、すみ子さんは立派に嫁を
努めあげた。朝は誰よりも早く起きて働いた。要一さんより遅く起きたことは一度だけし
かない。アカギレで手が切れていても、お風呂では舅や姑の背中を流したものだった。 

 体の小さいすみ子さんにとって養蚕の桑を下の畑から運ぶのが大仕事だった。最初は背
板(セータ:背負子)で運んでいたが、リヤカーで運ぶようになり、だいぶ楽になった。
その後、要一さんの運転する耕耘機で運ぶようになり、ずいぶん楽になった。     
 そして、要一さんの話。「おじいさんがいる時は戸締まりなんかしなかったんだいね」
「おじいさんは一ヶ月しか寝込まなかったんだいね。病院は嫌だって言ってねえ・・・」
「最後はあたしの腕ん中で死んだんだいね・・・」先月亡くなったばかりの要一さんのこ
とは、まだ思い出として話すのは早すぎる。これ以上はとても聞けなかった。