山里の記憶74


かなめトンネル:南 定雄さん



2010. 7. 28



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 埼玉県小鹿野町藤倉、旧倉尾中学校の前にそのトンネルはある。巨大な岩盤をくり抜い
てあり、普通に車やバスが通っている。このトンネルには「かなめトンネル」というプレ
ートが付いている。昭和21年に日尾の黒沢要人(かなめ)という人が掘ったトンネルな
ので、その人の名前がトンネル名として残っている。                
 戦中戦後のインフレで身代を傾けてまでトンネルを掘り抜いたその人の話は聞いたこと
がある。かつて「昭和の青ノ洞門」と言われていたという。実際にそのトンネルを見て思
う事は「すごい人がいたもんだなあ・・・」というもので過去の話だと思っていた。  
 ところが、人伝にこのトンネル掘りを手伝った人がまだ生きているという話を聞いて、
すぐに取材を申し込んだ。その人が南定雄(みなみ・さだお)さん(84歳)だった。 
 真夏の強烈な日差しが照りつける日だった。馬上(もうえ)の守屋勝平さんの家で定雄
さんの話を聞かせてもらうことができた。定雄さんは「もう、昔のことだかんねえ覚えち
ゃあいないんだいね・・・」と前置きして昔のことを思い出しながら話してくれた。  

戦中から戦後にかけて手掘りで掘られたかなめトンネル。 当時の様子を身振り手振りを交えて話してくれた定雄さん。

 定雄さんは終戦まで新人の工兵で長野に駐留していた。終戦になり、すぐに秩父に帰っ
てきたが、終戦の混乱は山国でも激しく、食糧難はどこまでもついて回った。そんな中で
要人さんのトンネル堀りを手伝うようになったのだという。             
 農家の育ちだったこともあり、体力には自信があった。それに、このトンネルを通せば
集落の人が本当に便利になることが分かっていたので、完成までとにかく頑張ろうと思っ
た。二十一歳という若さも後押しをしてくれた。「若かったかんねえ、くたびれる事なん
かなかったいねえ・・・」                            

 しかし、この巨大な岩盤は普通の岩盤ではなかった。チャートと呼ばれる鉄よりも硬い
岩盤だった。チャートの主成分は二酸化ケイ素(Si02・石英)で鉄よりも硬く、火打ち石
として使われる岩石だ。地元では「投げ石の場」とも言われている交通の難所で、ここに
トンネルを掘るなどということは考える人もいなかった。「火打ち岩」とも呼ばれる巨大
な岩盤、これが定雄さんの目の前にそびえ立っていた。               
 この硬い岩盤は発破をかけてもびくともせず、丼くらいの量しか岩が崩れない事も多か
った。ヒビも入らないし、穴を掘るタガネもすぐに先が丸くなってしまうような硬い岩盤
だった。トンネル工事は想像以上の難工事となった。                

 トンネル工事は要人さんが6450円で請け負い、昭和18年12月から工事を開始し
た。しかし、工事はなかなか進まず、そのうちに終戦を迎え、戦後のインフレで一気に資
材が高騰した。定雄さんが手伝うようになったのは戦後のことなので、要人さんが金策で
苦労しているのを目の当たりにしている。                     
 定雄さんの給料も遅配になることが多かった。要人さんは自分が鉱山で働き、その給金
で定雄さんの給料やダイナマイト代に当てて工事を続けた。定雄さんも「手伝いに出た以
上は貫通するまで頑張るんだって思ったいねえ・・」と当時の事を話してくれた。   
 4円50銭だったダイナマイトは戦後のインフレで60円にもなっていた。他の物資も
同じようなものだった。要人さんの借金はどんどん膨らんで行った。最終的には火薬代だ
けでも12800円もかかってしまった。                     

 当時のトンネル堀りは「上げ穴堀り」がまず最初だった。セットウというハンマーを振
り子のように振って上に向けたタガネを打ち込んで穴を掘る。その穴にダイナマイトを詰
めて爆発させて岩盤を砕く。これを延々と繰り返すのだ。午前中に穴を掘って、午後に発
破をかけるというのが日常だった。                        
 定雄さんが当時使っていたセットウを見せてくれた。ハンマーより柄が長く細い。「こ
れじゃあ、折れてしまうんじゃないですか?」と聞くと「黒沢さん、これはね上から振り
下ろすんじゃないんだいね。こうゆう風に振り子のように使うんだいね」と、言うと外に
出て実際に使って見せてくれた。                         
 「毎日やってたから目をつぶってても正確に打てたいね。こうゆう風に使うんだから疲
れないんだいね」本当に目から鱗が落ちるような使い方だ。ダイナマイトを詰め込む穴を
掘るのがメインの作業なので、タガネを下から打ち上げる使い方になる。       
 最初は太く短いタガネを使い、穴が深くなると一回り細く長いタガネに変える。最終的
には三尺のタガネ(キリともいう)を打ち込んでいた。タガネの刃がすぐに丸くなってし
まうので、河原にふいごが置いてあり、コークスを燃し刃を叩いて焼きを入れる作業を自
分でやった。頻繁に焼き入れをやっていた要人さんは焼き入れの名人になっていた。  

当時トンネルを掘るのに使っていた定雄さん愛用のセットウ。 セットウの使い方を実演してくれる定雄さん。振り子のように使う。

 定雄さんのセットウは昔金山(かなやま)鉱山で働いていた人から譲ってもらったもの
だ。「音がいいんだいね・・」と自慢のセットウだ。柄はよく折れるので、藤木やハナノ
キで自分で作った。細く柔らかく、しなうのが良い柄だった。            
 午前中にタガネで穴を空け、午後に発破をかける。ダイナマイトや導火線などを普通に
使っていた。今では考えられないことだが、当時は免許などなくても普通に使えた。しか
し、硬い岩盤は発破をかけても下に爆風が吹き出すだけで大きく崩れることはなかった。
 毎日だいたい朝8時から夕方5時頃まで作業した。暗くなってからの作業は出来ず、雨
の日も作業は出来なかった。服装は戦後の混乱時なので国防色のシャツしかなく、足は足
袋靴(たびぐつ)を履いていた。                         

 トンネルは掘れば掘るほど赤字が増していく状況で、地元の人達も見るに見かねて、村
中で工事に出て支援することになった。女衆(おんなし)も出て、土石運びを手伝った。
工事は急ピッチで進んだがなかなか貫通しなかった。                
 トンネルは天井から掘り進むのが手掘りの基本だった。下から掘ると最後に上を掘ると
きに足場を組んだり、発破のたびに足場を撤去したりしなければならないからだ。上を開
けてから下に掘り進むのが手順となっていた。                   
 地元の人の応援に力を得て定雄さんの作業にも力が入る。両側から掘り進んだ最後の壁
にダイナマイトを詰めて爆発させると、ついにポッカリと待望の穴があいた。トンネル貫
通の瞬間だ。定雄さんは「あんときゃあ嬉しかったいね、穴がつながったかんねえ・・」
とその時の事を話す。しかし、人や車が通れるまでには、まだまだ時間がかかった。  

 「最初から車を通す予定だったから、時間がかかったいね」「そうさねえ・・人の背丈
よりだいぶ高いところまで掘ったかねえ」「今のトンネルは後で上を少し削ってらいね」
 昭和21年7月、ついに長さ約15メートルのトンネルが開通した。このトンネルの開
通により二つの橋がなくなり、冬に凍る危険な道を通る心配もなくなった。その時の定雄
さんの感想はというと「ああ、通ったなあ・・」というものだった。戦後の貧しい時期だ
った。完成祝いだからといって酒を飲むなどの余裕はなく、特にお祝いはしなかった。 
「要人さんは当時配給の加配米を断るほどの正直者で、一徹な人だった。借金がどんどん
ふくらんで、お祝いどこじゃあなかったんだろうけど・・・トンネルの名前しか残んなか
ったいねえ・・」どれほどの借金を抱えてしまったのか分からないが、黒沢要人氏は昭和
46年、77歳でこの世を去った。                        

 定雄さんは26歳で一つ下の八重子さんと結婚した。かなめトンネルを通って来る、上
(かみ)の池原耕地からもらったお嫁さんだった。山奥のつつましくも幸せな生活が始ま
った。そして年月が流れ、八重子さんを病魔が襲う。43歳の時にリウマチになってしま
った八重子さん。定雄さんは徐々に症状が重くなる八重子さんを看病し続けている。  
「なかなか出来ないことだいねえ、本当に頭が下がるよね・・」と守屋勝平さんが言う。
私も思わずうなずくが、定雄さんは「なに、普通のことだから・・」とさりげない。  
 定雄さんの家の庭には、岩ヒバ、セッコク、カヤツリソウなど何百もの山野草の鉢が所
狭しと並んでいる。ひとつひとつが生き生きしていて珍しい花をたくさん咲かせている。
こちらの趣味も近所では有名で、見に来る人も多いという。縁側で楽しそうに話す定雄さ
んを見ながら、厳しい時代を生き抜いた人の強さをあらためて思った。        

自慢の山野草に囲まれて縁側で楽しそうに話す定雄さん。 かなめトンネルに代わる新しいトンネルを工事中だった。

 今「かなめトンネル」の横に新しいトンネルの工事が進んでいて、来年の3月には開通
する予定だ。先日2時間だけの内部お披露目があった。一方、かなめトンネルはこのまま
の形で残すことが決まっており、町の文化遺産として後世の人に語り伝えたいのだと守屋
さんが熱く語っていた。