山里の記憶
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焼き天:小澤ヒサ子さん
2010. 8. 13
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8月13日、全国の各地ではお盆の迎え火を焚く日だ。そして、秩父ではこの日に先祖
の霊が「おちつく」からということで「たらし焼き」を作る家庭が多い。そのたらし焼き
の豪華版というか、バージョンアップしたものというか、力強い粉料理「焼き天」という
ものを取材するために秩父の滝の上地区に向かった。
取材をお願いしたのは小澤ヒサ子さん(81歳)だった。息子さんと知り合いで、いろ
いろ話しているうちに「焼き天」の話が出て、是非それを取材させて欲しいとお願いして
実現した取材だった。たらし焼きのようなものという前知識だけで伺っていた。
ヒサ子さんは私が行くのを待っていてくれて、材料も切らずにそのままにしておいてく
れた。材料は、青紫蘇(大葉)、ナス、玉ねぎ、魚肉ソーセージ、その他、今日は小エビ
が入るそうだ。青紫蘇がなければ出来ないとのことで、この時期限定の料理だとわかる。
材料の野菜は自分の畑で作っている。ナスも青紫蘇も裏の畑から採ってきたものだ。
足腰がめっきり弱くなったが、まだ畑をやっていて、ナスとキュウリとインゲンは自分
で作っている。紫蘇は普通に畑や畦に生えている。息子さんは「買ってきた方が早いよ」
と言うが、体の動くうちは畑をやろうと思っている。
「なんたって、自分で作った野菜は味が違うからねえ・・」私も、まったく同感だ。
お茶飲みばなしもそこそこに、ヒサ子さんはすぐに台所に立つ。まずは小麦粉を一袋を
ボールに入れて、塩小さじ2杯くらいを入れ、水で少し固めに溶く。このあと、玉ねぎや
ナスが入るので柔らかく溶くと、野菜から水が出て上手く焼けない。
小麦粉に塩と水を加えて固めに溶く。この加減も微妙な加減。
最初はフタをして焼く。この強火が最後まで続いている。
次はナスを半割りにして小口に薄くスライスする。小振りのナスが3本、見る見る刻ま
れて山になる。刻んだナスはすぐに溶いた小麦粉に入れて混ぜ合わせる。そうしないとナ
スが黒く変色してしまうからだ。次は玉ねぎ二個を粗みじんに刻んでボールに入れる。
そして、大量の青紫蘇を茎部分を切り落としてから粗みじんに刻む。台所いっぱいに青
紫蘇の香りが充満する。「青紫蘇はいい香りがすらいねえ」「昔は青紫蘇が少なくて赤紫
蘇ばっかりだったんだいねえ・・」「これはねえ、青紫蘇が入らないとダメなんだいね」
いろいろ話しながらもヒサ子さんの手が動き続ける。
魚肉ソーセージを一本、半割りにしてから細かくスライスする。息子さんが言う「これ
が不思議と魚肉ソーセージでないとダメなんだいね」「ウインナーや豚肉や卵を入れると
焼き天にならないんだいね、旨くないんさあ・・何でかねえ・・」
ヒサ子さんも言う「昔からこれなんだいね。昔は肉なんかなかったし、カレーだってこ
れを入れてたんだいね」「そうそう、うちもそうだった」私も思わず相づちを打つ。
刻んだ材料を全部ボールに入れてかき混ぜる。そして、小エビをひとつかみ入れて更に
かき混ぜる。「エビでなくてもいいんだけど、エビがいい香りになるんだいね」
「コウナゴやカツブシでもいいんだいね。何でもあるもんを入れればいいんさあ。そんな
ちょうきゅうなもんじゃないんだいね」ヒサ子さんはこの料理を近所のゆりちゃんから教
わった。そのゆりちゃんも今はもう亡くなってしまった。
フライパンに大さじ5杯くらいの油が入れられて、ガスは強火で燃えている。種を入れ
るとジュワッと音がして香りが立つ。すぐにフタをしたヒサ子さん。「弱火だとしんなり
して油がべとつくんだいね。強火でかりっと【焼きつける】っていうんだけどね・・」
「強火だからちいっとお茶なんど飲んでると、真っ黒に焦げ付いちゃうんだいね」
この強火の焼き加減が、この料理の全てなのかもしれない。こういう料理で、これだけ
の油を使って、これだけ強火で焼くのは見たことがない。ヒサ子さんは音で判断してフタ
を取る。片面がきつね色になったらひっくり返し、フタを取って焼き具合を見ながら焼き
続ける。決して焦がさないよう、こまめに動かし、ひっくり返す。たっぷりの油で芯まで
火が通るようにカリカリに焼く。この焼き加減は難しい。
ひっくり返してからはフタを取って焼く。こまめに動かし焦がさない。
焼き上がった焼き天に味の素と醤油をふりかけるヒサ子さん。
「焼けたねえ・・」ヒサ子さんのつぶやきと共に、フライパンからお皿に移された「焼
き天」。そしてヒサ子さんが取り出したのが味の素と醤油。これを焼き天の上から振りか
ける。醤油が「ジュッ」と音を立て、香りがフワーと広がる。「うわあ、旨そう・・」
思わず声が出る。「さあさあ、熱いうちに食べてくんない・・」
娘さんが包丁で切り分けてくれる音がいい。サクッ、サクッと切る時に音がする。カリ
カリに焼かれている証拠だ。すぐに一切れかぶりつく。カリッという感触が歯に気持ちい
い。醤油の香りが鼻に抜け、紫蘇の香りが口いっぱいに広がる。噛んでいると干しエビの
味がじんわりと出てくる。いやはや、これは何と言えばいいのか・・・じつに旨い。
「ヒサ子さん、これほんとに旨いですよ!」「そうかい、そりゃあ良かった・・」
息子さんが言う「孫が好きでさあ、ばあちゃんの焼き天が食いたい食いたいって言うん
だいね。この時期に来なくちゃ食えないんだから帰って来いって言うんさあ」
娘さんも言う「この焼き加減が、やってみるんだけど違うんだいねぇ。どうしてもこうい
う味にならないんだいね」「おばあちゃんの焼き天はほんとに美味しいよね・・」
材料はシンプルだし、作り方もこれといって難しそうではない。しかし、この味が出せ
るかと言われれば、それは無理だ。小麦粉をこねる水加減もそう、塩味の加減もそう、な
により、あの強火で焦がさないように芯まで焼き上げる焼き加減の難しさ。経験と技とし
か言いようがない。
今回は三枚の焼き天が出来た。フライパンは高温になり、一枚目と三枚目では焼く時間
や動かす回数は違ってくる。それでも出来上がる焼き天は同じように焼き上がってくる。
「普通にやってるんさあ」とヒサ子さんはさらりと言うが、自分で同じように出来る自信
はない。たとえば、これをレシピでどう表現すればいいのだろうか。加減という難しさが
味を決めるのだから、レシピ通りにやっても出来るはずがない。ヒサ子さんの焼き天を食
べて、初めてわかる味なのだから、味を伝える難しさを痛感する。すべからく料理という
ものはそうなのだが、レシピで作るのは簡単だが同じ味が出来るものではない。
焼き上がったものを食べやすい大きさに切る。サクサクと音がいい。
玄関で送ってくれたヒサ子さん。まだまだ元気いっぱい。
次々に皿の焼き天を平らげて、口もおなかも大満足になった。ヒサ子さんもお茶を飲み
始めたのでいろいろ昔の話を聞いてみた。
ヒサ子さんは両神の薄(すすき)で生まれた。家はカゴ屋をやっていた。昔の畑仕事に
はカゴが不可欠で、近所からも重宝がられていた。7人兄弟の4番目で、にぎやかな家庭
だった。どこの家も貧乏な時代だったが、兄弟は力を合わせて生活を支えた。
ヒサ子さんは12歳から群馬県新町にあったカネボウの紡績工場に女工として働きに出
た。三年の年期を終えるころから戦争が激しくなり、学校でも勉強する時間などなかった
。勤労奉仕ということでお蚕上げ(おこあげ)の手伝いや、馬の餌になる飼い葉干し草作
りなどをやらされた。干し草は山に刈りに行かなければならず、大変な重労働だった。
戦争に使う松根油(しょうこんゆ)の材料にするのだと、松の木の根を掘らされた。
「まったく、勉強ずらあなかったいねえ・・」と昔を思い出しながら笑う。
戦争が終わり、少し世の中も落ち着いてきた昭和29年、25歳になったヒサ子さんは
二つ下の秀三(しゅうぞう)さん(23歳)と縁があって結婚した。車などなく、ヒサ子
さんは両神からバスで秩父まで嫁に来た。新居は小さい「あらじんしょ」と呼ばれる家だ
った。何もない家で、少しずつ家財を集めることから始めなければならなかった。長男の
一郎さんが生まれた時には「湯たんぽすら無かったんさあ・・あはは」と笑う。
ご主人の秀三さんは色々な仕事をした。子供を育てるために少しでもいい給料の会社を
捜し、身を粉にして働いた。ヒサ子さんも和裁の仕事で家計を助けた。二人三脚で厳しい
時代を生き抜き、三人の子供を育て上げた。「貧乏だったけど頑張ったもんだいねえ」
最後は丸通(タクシー)の運転手で67歳まで働き通した秀三さんだったが、一昨年に
他界した。焼き天は秀三さんとの思い出の味でもある。夏バテしないようにとヒサ子さん
が作った焼き天を「旨い、旨い」と食べていた秀三さんだった。
ヒサ子さんが昔から作っていたこの「焼き天」は息子の一郎さんにとって自慢の味だ。
ヒサ子さんも「子供が好きなんで、よく作ったいねえ」「今は孫が、ばあちゃんの焼き天
を食べなくちゃって言ってくれるんが嬉しいよね・・・」と言う。
きっとこの味がこの家の味として、ずっと伝わっていく味になるんだろうと思う。