山里の記憶
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小豆ぼうとう:守屋文子さん
2010. 8. 16
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8月16日、言わずと知れたお盆の送り日。京都五山の送り火が有名だが、この日ご先
祖様の霊を送る行事が各地で行われる。秩父のある地方では、この日に【小豆ぼうとう】
という料理を作りご先祖様の霊を送る。今日はその小豆ぼうとうの取材で小鹿野町藤倉、
馬上(もうえ)耕地の守屋文子(ふみこ)さん(82歳)を訪ねた。小豆ぼうとう取材の
前に、守屋家のお盆について話を聞いた。
守屋家は倉尾の旧家だ。江戸時代の古文書などが蔵から出てくるような家なので、昔か
らのしきたりがまだ残っている。ご主人の勝平さん(81歳)に話を聞いた。
守屋家のお盆は8月1日から始まる。釜の口開けといい、この日に墓参りをして草刈り
などお墓の掃除を行う。このお墓からの道を「盆道」といい、この道を通ってご先祖様の
霊が自宅に帰ってくるといわれている。
13日までに盆棚を作る。正式には今ある仏壇とは別に作るのだが、今は仏壇の前に簡
単に作ることが多くなった。棚に先祖の位牌を並べ、竹の柱を2本立て、チガヤでなった
細縄をぐるりと渡し、曹洞宗のお寺さんから頂いた「お盆様」札を吊り下げる。
40年前までは盆提灯を飾っていたが、今は飾らない。盆提灯は新盆(あらぼん)の家
で飾るものだと勝平さんは言う。お供え物は果物、かぼちゃ、スイカなどを飾り、ナスの
馬を作る。守屋家ではきゅうりの馬は作らない。お花も両側の花瓶に桔梗や萩、女郎花な
ど秋の花を飾る。今は普通に売っている仏花を飾ることも多い。赤いホオズキを縄から吊
す家もある。仏画などの掛け軸や故人の写真なども飾り、ご先祖様を迎える準備が整う。
守屋家の盆棚。仏壇の前にしつらえ、お供えや仏画を飾る。
昔はどこの家にもあった機械で麺の生地をこねる文子さん。
13日夕方、ご先祖様が帰ってくるので迎え火を焚く。昔は松のヒデ(松脂の塊)を燃
したものだが、今は普通に木の枝などを燃している。台所では文子さんがたらし焼きを作
って盆棚にお供えする。これは、ご先祖様が帰ってきて「おちつく」からだと言われてい
る。たらし焼きがなぜ「おちつく」ことになるのか・・・落ちて固まるからだろうか、よ
くわからない。とにかく遠くから来たご先祖様にまず出す食事ということだ。
13日から15日まで、夕食は家族全員でこの盆棚の前で食べるのが習わしだ。朝ごと
に水、ご飯、お茶を備えるのは文子さんの役目だ。またご先祖様と来客をもてなすために
おはぎやお寿司を作るのも大事な仕事になる。
そして16日、午後からご先祖様の送り出しとなる。文子さんは【小豆ぼうとう】を作
って盆棚に供える。夕方、盆棚を作っていた竹の柱やお花、お供え物をチガヤの縄で縛り
、お墓の横の薮に運ぶ。昔は川に流していたのだが、今は申し合わせて川に流さないよう
にしている。精霊流しと同じ意味を持つ送り出しだ。こうしてご先祖様と過ごした4日間
が終わる。
文子さんにお願いして小豆ぼうとうの作り方を見せてもらった。文子さんが奧から出し
てきたのは、昔なつかしい「うどんこね機(小野式製麺機)」だった。昭和40年くらい
に買ったものらしい。昔、我が家で使っていたうどんこね機はもう少し華奢だったような
気がするが、タイプは同じものだ。うどん玉をこねて、のして、麺に加工するローラーマ
シンだ。毎晩のようにこれでうどんを作っていた事を懐かしく思い出した。
今回は1キロの小麦粉に大さじ半分ほどの塩を加え、よくこねたものを4時間ほど寝か
せてあった。一握りの種をローラーに入れてのす。最初は端がギザギザだが、何回も折っ
て、通してをくり返すと滑らかな生地になる。厚さは3ミリに設定してあるようだ。
文子さんは「そうさねえ、7・8回のすときれいになるよねえ・・」と言う。のすごと
に打ち粉を振り、様子を見る。きれいにのされた生地を麺のように縦に切るのではなく、
横に切る。1センチ幅で切ると8センチ長の短冊状の麺が出来上がる。これが小豆ぼうと
うの麺になる。一枚一枚に打ち粉を振ってくっつかないようにしておく。
こねた生地を一センチ幅に切るとほうとうの麺が出来上がる。
普通のうどんを茹でるように鍋で麺を茹でる文子さん。
出来上がったほうとうの麺を大きな鍋で8分くらい茹でる。何度か差し水をして吹きこ
ぼれないようにすると、ほうとうはしっとりとした色に茹で上がる。ザルで取って水に放
って洗い、更に水を替えて洗ってからザルで水を切る。普通のうどんと同じ作り方だ。
一枚食べてみた。もっちりとした歯ごたえ、芯に腰があり、噛み応えのあるほうとうだ
った。「これ、腰があって旨いですねえ・・」「そうかい、群馬の地粉を使ったからかね
え、色も濃いんだいね・・」口の中に地粉の香りが広がる。
文子さんは作って置いた小豆餡の鍋を出してきた。小豆は自分の家で作っている。これ
もつまみ食いしてみた。甘すぎず、さらりとした小豆餡だった。ただ、まだ、この小豆餡
とほうとうの合体した味が、頭の中でいまいち具体的にならないのが歯がゆい。
文子さんがボールに小豆餡を移し、そこにほうとうを入れて混ぜ始めた。「これが【小
豆ぼうとう】なんだいね。茹でる前にねじれば【ねじぼうとう】になるって訳だいねぇ」
そうか、よく郷土食の本に出てくる【ねじ】という料理がこれなんだ。昔からの疑問が
ひょんなことから一つ消えた。
「さあさあ出来ましたよ。ご先祖様に上げてから頂きましょうかね・・」居間の盆棚の方
にボールを運ぶ文子さん。勝平さんがお皿に取って盆棚に上げた。
小皿に取り分けられた小豆ぼうとうの写真を撮ってから口に運ぶ。小豆の爽やかな甘さ
が口に広がり、もっちりとしたほうとうの歯ごたえが重なる。噛んでいると渾然一体とな
り、例えるとあんこ餅を食べてるような味になってくる。初めて食べる味だ。驚いたこと
に意外と旨い。そういえば団子やお饅頭もこんな組み合わせなのだから不思議でもない。
「いやあ、旨いもんですねえ、驚いた」「ほうとうと言うよりもお菓子ですね・・」
ほうとうの大きさがじつにいい。餡をからめて二つ折りすると、ちょうど口に入る大き
さになる。じつに計算された大きさだ。長い麺ではこうはいかない。
昔、甘いものが貴重な時代、これはすごいご馳走だったはずだ。ご先祖様を送る大事な
場面に作られる、特別な料理だったに違いない。
それにしても、送り盆でなぜほうとうなんだろうか? 勝平さんは「自分の家で作った
物の中でご馳走を作るとなると、こうなるんだろうねえ・・」と言う。
そもそも、お盆の行事は正月と並んで日本人にとって最大の祖霊祭だ。江戸時代に檀家
制度が出来たため、仏教と結び付けられたが、本来は仏教行事ではない。正月が年神様を
迎えて五穀豊穣を願うものであれば、お盆は麦の収穫を感謝し、秋の稲作の結実を願って
のお祭りという側面があった。年に二度の藪入りも盆・正月と決まっている。
麦の収穫感謝と考えれば、小麦粉で作った【たらし焼き】でご先祖様を迎え、同じく小
麦粉で作った【小豆ぼうとう】というご馳走でご先祖様を送るという意味も良くわかる。
ただ、これは秩父のある地方に限った話なので一般論ではない。それでも、お供え物が畑
の生産物であるという点は変わらない。やはり、祖霊祭であり、収穫感謝祭なのだろう。
「最初はこんなだいね」と機械でこねて見せてくれた勝平さん。
ご先祖様に供える。たらし焼きとぼたもちも供えられている。
おいしい小豆ぼうとうを食べ、おいしいお茶を頂きながら、文子さんに色々昔の話を聞
いた。文子さんは両神(りょうかみ)の薬師堂近くで生まれた。母親も教員という教員一
家に育ち、文子さんも教師となるべく育てられたし、勉強もした。
秩父の高等女学校に通う時、小鹿野の千束峠で木炭バスの後を押して通学するような時
代だった。戦争が激しくなり、浦和の全寮制の大学で学んでいた文子さんだったが、学徒
動員で勉強どころではなかった。三菱の工場で飛行機のジュラルミンを磨く作業をしてい
た文子さん、戦争が終わった時、作業服で玉音放送を聞いていた。
教師になった文子さん。28歳の時に縁があって勝平さんと結婚することになり、倉尾
に来た。事前に友人と場所を見に来たときのことだった。倉尾を初めて見たときの印象は
「山がかぶさってくるようで怖かった」と言う。両神は田んぼもあり空が広いが、倉尾は
空が狭い。そして、結婚相手は後に町長を二期務めるほどの新進気鋭の政治家だった。
文子さんは言う「あたしはガイコウ(秩父弁:外に出て活発に活動すること)が苦手で
ねえ、選挙っていうと『公務員なんで選挙運動が出来ないんで、お勝手の手伝いくらいし
か出来なくて申し訳ないやねえ』って言ってたんだいねえ・・」
様々な思いをこめて述懐する文子さん。教員を38年勤め、56歳で退職した。人に言
えない忍耐の人生だったと思うが、立派に三人の子供を育て上げた。
男一人、女二人の子供達はみな教師になり、母親や守屋家の義父から続く教員一家の系
譜は立派に守られている。