山里の記憶8


養蚕(おかいこ):小池満喜子さん



2007. 6. 7



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 秩父での養蚕の歴史は古い。埼玉県の資料によると、紀元前後、崇神天皇の御代とお
ぼしき時期に、知々夫彦命が国造として秩父に来任、養蚕と機織りを教示したと書かれ
ている。歴史と共に養蚕は連綿と受け継がれて来たことになる。秩父の養蚕は作物の育
たない土地で収入を得る唯一と言って過言でない産業だった。家々は桑畑の改良にいそ
しみ、研究を重ね、良い繭(まゆ)を生産することに没頭した。鎌倉幕府は「桑代」と
称して養蚕に課税した。秩父事件を生んだ時代背景も秩父の養蚕の歴史そのものだ。 

 戦後、復興した養蚕事業は昭和43年に埼玉県最高の繭生産量13,200トンを記録し、
以後徐々に減少に転じてきた。昭和55年には7,200トン、平成5年には1,000トンを
割り込み、平成13年には100トンを割り込んだ。そして平成16年には生産戸数177
戸、繭生産量56トンにまで落ち込んでいる。平成19年の今現在、いったい何戸でど
のくらい生産しているか分からないが、相当少なくなっていることは間違いない。  

 戦後最高を記録した昭和43年に、私は15歳、中学3年生だった。どの家も二階は
カイコ部屋になっていて、どこにでも桑畑があった。学校に行く前に桑を刈ってきて、
学校から帰ると桑を刈りに山の畑に行ったものだった。家と生活は常にカイコと共にあ
った。カイコの成長がそのまま家の収入につながり、繭の出来不出来が食卓に直結して
いたのだから、手抜きは許されなかった。カイコに「お」を付けて、尚かつ「様」まで
付けて「お蚕さま」(おこさま)と呼んでいた。「お蚕さま」の機嫌取りが、どの家で
も最優先事項だった。                             

 今回、養蚕の取材をお願いしたのは友人の吉瀬さんの知り合いだった。知り合いのお
ばさんが、まだ養蚕をしていると聞き、一も二もなく取材を申し込んだ。それほど、今
養蚕をしている人は少なくなっている。手入れされた桑畑もほとんど見られなくなって
おり、たまに見かける放置桑畑は見苦しいだけで養蚕の衰退を如実に表している。寺尾
の養蚕農家、小池満喜子(まきこ)さん(75歳)を訪ねたのは午後2時頃だった。ち
ょうど桑をくれ終わった満喜子さんはタタキの土間に我々を迎え入れて、いろいろ話を
聞かせてくれた。                               

2階の蚕室は昔の匂いで満ちていた。蚕が桑を食べる音が聞こえる。 元気に桑を食べ続ける蚕(かいこ)。繭(まゆ)を作るのはまだ先。

 小池さんの家のカイコは5齢(れい)に入ったところで、あと1週間くらいで「おこ
あげ」になるところだそうだ。今は1日に3回桑くれをしているところで、ちょうど休
み時間だったそうで助かった。稚蚕(ちさん)は2齢で専用の飼料と一緒になっている
のが農業試験場から入ってくる。昔は自宅で掃き立てて毛蚕(けご)から飼育していた
が、今はもっぱら農業試験場から入ってくるものを使っているとのこと。5月24日に
入り、6月13日くらいから順に「おこあげ」となり、その10日後くらいに繭の出荷
となる。ちなみにカイコは昔から家畜として分類され、1頭2頭と数える習わしになっ
ている。                                   

 この時期の養蚕を春蚕(はるご)と呼ぶ。昔は一年で5回も6回も繭を出荷した。春
蚕、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)、晩秋蚕(ばんしゅうさん)、晩晩秋蚕(ばんば
んしゅうさん)、初冬蚕(しょとうさん)などと呼ばれていた。初冬蚕と言っても、6
回目だからそういう呼び名になるだけで、11月や12月に養蚕をやっていた訳ではな
い。第一、その頃には桑の葉がない。蚕室の温度管理などをきっちりやって、効率よく
カイコ作りを回転させていたということだ。それほど昔は養蚕に力を入れていたのだが
、今は春、夏、秋の3回が精いっぱいだと、満喜子さんは笑いながら言っていた。  

 この寺尾地区でも養蚕をやっているのは5〜6軒になってしまったそうだ。出荷した
繭は山形の製糸会社に送られる。今、製糸会社は全国で2軒だけになってしまっている
。満喜子さんに蚕室を案内してもらった。タタキの土間の隣が土間の桑置き場となって
いて、外からすぐ二階に登れるようになっている。二階への広い階段を登ると、そこに
蚕室があった。二階全体が蚕室で、柱しか立っていない広い空間がそこにあった。  

 カイコは2列に並べられ、与えられた桑の葉を一生懸命に食べていた。じっと耳を澄
ますと懐かしい音が聞こえてくる。「サワサワサワ・・・」カイコが桑の葉を食べる音
だ。「おこあげ」近くなるとザーザーとまるで雨が降っているような音がしたことを懐
かしく思い出した。「今は少ししか飼ってないからこんなもんだけど、一杯の時はすご
い音がしたもんだいねぇ」と満喜子さんも懐かしそうに言っていた。        

うらべにさんも興味津々で写真を撮っている。 まぶしから出来上がった繭(まゆ)を押し出す機械。

 見上げると天井から回転まぶしが下がっている。満喜子さんが「昔は3段吊ったけど
、今ははあ2段だいねぇ」と言う。上に吊ってあるのはこれから吊る「まぶし」の支柱
になっているのだそうだ。そっと手で触る。力を入れたらクルリと回った。この手触り
も、この匂いも何もかもが懐かしい。「まぶし」を組み立てたり、分解したり、枠を洗
ったりした感触が鮮やかに蘇ってきた。満喜子さんが小学5年の時にこの「回転まぶし
」が出来たのだそうだ。その前はワラの「まぶし」を使っていて、棚に入れたり出した
りが大変だったそうだ。蚕室の梁の上にはその「ワラまぶし」がまだ残されていた。 

 今でも桑を採りに行くのは朝と夕方だそうだ。昼間に採るとしおれてしまうからだ。
雨が降り続くときは大変だ。濡れた桑をカイコにやるとウミコ(むくんだカイコ、膿が
出て繭にならない)が出来てしまうからだ。桑の葉を濡らさないように、または乾かし
てカイコにやり続けるのは大変な作業だ。桑置き場から二階に上がる階段の幅が広いの
は桑の葉を運びやすくするためだ。満喜子さんは足を悪くしてしまい、今は桑を二階に
運ぶのは夫の武作(ぶさく)さんの仕事になっている。武作さんは写真嫌いで、取材の
話には応じてくれたが、カメラを向けると横を向いてしまうので困った。      

 大きな蚕室の隣には少し成長の遅れたカイコを育てている部屋があった。遅れている
といっても私にはさほどの違いは分からなかった。出来上がる繭の大きさに違いが出る
のだろうか・・。満喜子さんが「おこあげ」の仕方を教えてくれた。ネットを掛けると
カイコがネット上に這いだしてくる。それを5〜6キロまとめて「回転まぶし」に移す
のだが。専用の器具を使って効率良く出来るようになったという。簡単な器具だが、見
たら「なるほどなあ・・」と感心した。効率よく、カイコを傷めないで手早く「おこあ
げ」が出来る器具だった。                           

下にネットを張って、この器具で蚕をふるい落とす。 ハウスの台には桑を乗せて移動する器具が付いている。

 小池さんの家で育てている「春蚕」は種で10gだったそうだ。それが約60キロの
繭になる。多いときは種100gを掃き立てたというから、繭では600キロ以上にも
なった。本当に夜も昼も無い状態だったと思う。武作さんも「ほかにやる事も無かった
から続けてきたけどねえ、はあ、大変だったいねぇ・・」と笑いながら昔を振り返る。

 家の近くの桑畑を見せてもらった。通称「げんこ」と呼ばれる桑の株がたくさん立っ
ていた。今朝桑の葉を採ったところだ。枝の切り口から大量の水が流れ出ていた。脇の
小さい芽は、すぐに大きく育って新しい桑の葉を付けるようになるはずだ。     
 ドドメ(桑の実)を食べながら桑畑の下を覗く。雑草も生えていない素晴らしい桑畑
だ。葉の色が目に鮮やかに飛び込んでくる。枝先へ行くほどに薄くなる緑のグラデーシ
ョン。その葉と葉の間には赤や紫色のドドメが鈴なりになっている。小学生の頃おやつ
代わりにむさぼり食べた味がそこにあった。帽子やポケットに詰め込んで、実がつぶれ
て紫色に染まってしまい、洗濯しても落ちなくて、よくお袋から怒られた。     

 養蚕農家が少なくなっている現実はどうしようもないかも知れない。しかし、産業と
してではなく、家内制手工業として残す手だては無いものだろうか。埼玉県では今、さ
いたまブランド繭「いろどり」を生産して、ニットシャツや石けん、洗顔パフなどの商
品化をしている。秩父でもシルクの良さを他にも応用できないものだろうか。昔、くず
繭を使って作った秩父銘仙は素晴らしい産業だった。糸紡ぎや染色、機織りなど昔なが
らの技を使って新しい趣味の世界を作れないものだろうか・・・ひとしきり懐かしさに
浸った後で、ふとそんな事を考えた。