山里の記憶
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草もち:野口ふみ代さん
2011. 4. 2
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四月二日、神川町矢納に草もち作りの取材に行った。この地区は月遅れで桃の節句を
行う地区で、今回はひな祭り用のもちつきをするということで取材させてもらった。矢
納は本庄から神流川を越えて山に入ったところにある。山深い急斜面に民家が段々状に
建っている様は奥秩父のような光景だ。
今回、草もち作りの取材を受けてくれたのは、野口ふみ代さん(七十九歳)で、家に
は助っ人として弟夫婦が来ていた。下久保の実家から来た新田清志さんと和子さんの夫
婦だ。庭のカマドには大きな葉釜がかけられ、すでにもち米がふかされていた。
矢納の集落は、急斜面に段々状に建っている。
昔は養蚕をやり、牛も飼っていた典型的な農家。
台所で忙しく立ち働いているふみ代さんに挨拶をする。今日は五臼のもちをつくとの
こと。白、草、白、草ののしもち用と、草の丸もち用の五臼だ。ひと臼二升のもち米だ
そうだから、ずいぶん大量のもちになる。ひな祭り用ののしもち。昔は、きみ(キビ)
、粟(あわ)、白、ささもろこし(タカキビ/コーリャン)の四種類をついた。ささも
ろこしは背の高い雑穀で、穂の部分で座敷ほうきを作ったものだった。
最初は白いもちをつく。庭の釜から、ふかされたもち米が臼に運ばれる。臼のもち米
からモウモウと白い湯気が立ち上がる。弟の清志さんが大きな杵でこねはじめる。臼は
年期の入ったケヤキ製。杵は新しいケヤキ製。臼の周りを移動しながらもち米をこねて
いく。ここが一番疲れる場面だが、清志さんは楽にそれをやってゆく。途中で私も代わ
ってこねる。こね上がる頃合いを見て、もちつきが始まった。
清志さんと和子さんの呼吸がぴったりだ。見ていても気持ちいいリズムでもちがつか
れる。私も交代でもちをつく。額から汗が流れるが、かまわずつく。腕が痛くなりかけ
た時、和子さんから「そのくらいでいいだんべえ・・」と声がかかって、つき終わり。
三年前までひな飾りをやっていたが、子供らも帰ってこないし、やめてしまった。昔
は、階段のような板を組み立てて、ひな壇を作り、緋毛氈を敷き、おひな様を並べたも
のだった。のしもちを菱形に切り、ひな壇に供えたものだった。今は、花より団子では
ないが、もちつきだけが習慣として残っているのだと笑って言う。
おひな様を出すのも、飾るのも、しまうのも大変だった。人が、それも子供が少なく
なっては、おひな様も喜ばれない。壊してはいけないと、しまいっぱなしになって、表
に出なくなってしまった。どこの家でもおひな様は納戸の奧に、大切にしまわれ、そこ
から出ることがなくなってしまった。
「子供のもんなんだけど・・」と言いながら、ふみ代さんが一つのひな人形を出して
見せてくれた。それは、ガラスケースに入れられた「嵯峨野」のおひな様だった。自分
のひな人形は納戸の一番奥に入っているので、出せないのだと、すまなそうに言うふみ
代さん。もちろん、無理なお願いは出来ないし、これを見せてもらっただけで満足だ。
ふみ代さんが出して見せてくれた子供のおひな様。
もちをつく清志さんと和子さん。息がぴったりだった。
今回の草もち用のもち草は、昨年畑の横に生えたヨモギを摘んだものだ。道路っぱた
のヨモギは摘まず、畑のきれいなヨモギを摘む。袋いっぱい摘んだヨモギを、ソーダを
入れた湯で十分くらい茹でて、水にさらしてアクを出す。重曹を使う人もいるが、ふみ
代さんは使わない。重曹は色が少し茶色になり、葉のねばりもなくなる。もち草は、刻
まず、そのまま使う。
水にさらしたもち草をよく絞り、小分けにして冷凍する。こうしておけばいつでも草
もちや草団子を作ることができる。今回の草もちには小分けしたもち草を一回で二個使
った。多く使えば色が濃くなるが、風味という点ではこのくらいがいい。もち草は、三
十分ふかしたもち米にちぎって加え、十分間一緒にふかす。これで充分柔らかくなる。
次のもち米がふかし終わった。今度はもち草も一緒にふかしてあり、いよいよ草もち
をつく。清志さんがこね始める。交代して私もこねる。徐々にもち草の緑色が広がって
くる。こね終わる頃にはきれいなうぐいす色になっている。和子さんが手返しをして、
もちつきが始まった。手水が飛ぶのもかまわず思い切り杵を振り上げてつく。清志さん
が「杵はさあ、その重さでつくもんだから、そんなに力ぁ入れなくたって大丈夫だよ」
と諭すように言ってくれるが、久しぶりのもちつきなので加減が出来ない。すぐ、額に
汗がにじみ、腕が痛くなってくる。明日はたぶん筋肉痛になるのだろう。
草もちがつきあがった。和子さんが手際よく丸めたもちをのし板に運ぶ。片栗粉の上
に置かれた草もちは、ふみ代さんの手でめん棒を使ってのされていく。丁寧に少しずつ
四角にのされていく草もち。「四角くするんが難しいんだいね・・・」菱形に切るのし
もちだから、出来上がりを四角にしないと半端が出来てしまう。
もちが固くならないうちに四角くのしあげて、それをめん棒でくるりと巻いて、奧の
座敷に持って行く。そこにはベニヤ板が置かれており、新聞紙が広げられている。先ほ
どの白いのしもちが置かれた横に、のした草もちを置き、広げて冷ます。
作業が一段落したところで、ふみ代さんに昔の話をいろいろ聞いた。
ふみ代さんは二十歳の時、下久保から嫁に来た。清さんが二十一歳の時だった。清さ
んは結婚した当時、山仕事の木出しを仕事にしていた。その後、木材自由化で日本の林
業は衰退し、清さんも山仕事では食べていけなくなり、石屋へと転進する。
「昔はえら石屋があったんだい。トラックの免許を取って、あちこち行ったもんだった
いなあ・・」「今は、はあ、石屋じゃあ食えないやねえ、みんな廃業しちゃったいねえ
・・」問わず語りに昔の話が出てくる。家の仕事はふみ代さんとおばあさんがやった。
「昔は三升臼でもちをついたんだいね。今のより、うんとでっかい臼だったから、大変
だったんだいね・・」「男衆(おとこし)が出稼ぎに出てるときは、おばあさんと二人
でもちつきをやったんだいね・・」「牛も二頭べえ飼ってたんで、その世話も大変だっ
ったんだいね・・」その話を引き継いだのは、実家の清志さん。
「姉ちゃんは、下久保の家まで山越えで、牛のエサにするジャガイモを分けてくれっ
て背板でカゴをしょって来たんだいね。あれはたまげたいなあ・・」「姉ちゃんはすげ
えなあって思ったいね・・」
牛を飼って、お蚕をやって、休む暇もなかったふみ代さん。そんな中でも三人の子供
に恵まれた。上二人が女で、末っ子は男の子だった。ふみ代さんが四十一歳の時におじ
いさんが亡くなった。亡くなる前には寝込んでいたので、看病で寝る時間もなかった。
昼間は子供を背中におぶって、牛の乳しぼりをやったものだった。
畑仕事も二人でやった。「逆さっ掘りで畑を耕すんは大変だったいなあ・・」逆さっ
掘りとは、急斜面の畑の上に立ち、下に向かって鍬を振り、土を掘り上げることだ。雨
や風で土が下に流れたものを上に戻すために、こんな無理な堀り方をする。重労働だが
、これをしないと畑の土がどんどん少なくなってしまう。
水でも苦労した。昔は横の沢から竹のトヨで水を引いて使っていたのだが、夏には枯
れるし、大水が出れば濁るし、冬は凍るし本当に苦労したものだった。実家は、井戸が
三つもある、水に困らない家だったので、余計に大変さが身にしみた。
次のもち米が蒸し上がった。これが最後のもち米で、これも草もちにする。清志さん
と交互について、やわらかいもちがつきあがった。ふみ代さんはつきあがった熱いもち
をちぎって皿に取る。隣の野口さんが持参した、辛味大根のおろしと、きな粉で食べよ
うというのだ。取り分けてもらった草もちをひと皿いただき、それに大根おろしときな
粉をかけて食べる。大根おろしは、辛味大根の辛さと醤油の香りが柔らかいもちと渾然
一体となって口に広がる。きな粉は砂糖が入っているので、上等なお菓子の味わいだ。
わいわいと、あんこもちを作る女衆(おんなし)3人。
旨そうなもちが出来たねえ、縁側で愛犬と遊ぶ清さん。
横では女衆(おんなし)が丸めた草もちであんこもちを作っている。これが今日のお
昼ご飯になるようだ。ふみ代さん、和子さん、隣の野口さんと三人がわいわい話しなが
らもちを丸める様は、昔のお日待ちやお祭りの前のようだ。
そして、出来上がったもちをお皿に盛って昼ご飯。「いっぱいあるからねえ、いっぱ
い食べてくんないね」煮物やお漬物、お味噌汁が出て、豪華な昼食になった。
あんこもちは甘く美味しかった。もっちりと柔らかい生地と甘さが口の中で一体にな
り幸せになる。緑色が春を感じさせ、持ったときの柔らかさがじつに気持ちいい。美味
しいもちを食べると、何だか幸せな気分になる。