瀬音の森日記 68


会報第2号と署名のお願い



1999. 6. 28


6月25日付けで会報の「瀬音の森 通信 第2号」を発行した。今回の内容は先
月行われた安谷川イベントの報告と感想文が中心になっている。寄稿文は「瀬音の
森の物語」安藤博士さん、「瀬音の森・雑感」渡辺 渡さん」、「渓流、そして森
」阿部正蔵さんと各氏から頂いた。                     

そして私が行って見てきた「瀬音の森・くまもと」の吉無田の森の話。渡辺さんの
「瀬音の森・小菅5/22号」が掲載された。特に感想文は圧巻で、参加者の生の
声を添削なしで掲載したので、どんなイベントだったのかが良く分かって頂けると
思う。表紙のイラストは会員の澤田さんにブナの実を付けた枝を描いてもらった。

今回は感想文をすべて掲載したかったのでページが12ページとなった。編集は大
変だったが、出来上がった会報には満足している。よくもまあピタリと収まったも
のだと感心してしまう。イベントが終わって早い時期に会報を出したかったので、
スムーズに作業が進んでくれたのが嬉しい。協力していただいた皆さんに感謝しま
す。                                   

今回の会報に署名用紙を同封した。「川辺川ダムに【環境アセスメント】実施を求
める誓願署名のお願い」という書面をつけた。これは、熊本の川辺川に建設中の川
辺川ダムについて「本体工事着工の前に環境アセスメントを実施して欲しい」とい
う誓願を国会に提出する為のものだ。                    

あくまでお願いなので強制ではない。以前から川辺川ダム反対を言い続けて来たの
で、趣旨は分かってもらえると思っていたのだが、この「お願い」を会報に同封す
る点は正直なところ迷った。ダム反対は私が言い続けてきた事であって、瀬音の森
で言い続けてきた訳ではないのだから。                   

迷ったけれど入れた。それは、瀬音の森は豊かな渓流を育み、それを後世に伝える
ため各種の活動により環境の保護を図る団体だ、という点から判断した。やはりど
う考えても33年前の計画を環境アセスのされないまま実行するのはおかしいと思
う。水質日本一をうたっている川が死ぬのを見過ごすわけにはいかない。    

建設の目的はすでに失われて、計画を実行するための建設でしかなくなっている。
ダムが出来れば川は死ぬ。下流の川は濁り、魚はいなくなる。上流はダムを砂に埋
もれさせない為に何千もの砂防堰堤でズタズタになる。それはもう川ではなく単な
る水路だ。                                

もういいんじゃないか?これ以上川を壊さなくても。水が全然足りないならともか
く、本来水を使う人が「いらないよ」と言ってるのだから。ダムは一度作ってしま
ったら壊すことが出来ない。大量のヘドロと砂に埋まり、いずれは山の一部になっ
てしまう。そして、人間の作ったものだから必ず壊れる。その災害を誰が予測して
いるのだろうか?                             

そんな私の思い込みもあって誓願署名のお願いを入れたのだが、何人かの人からは
賛同の電話をもらった。ただ、ある人から「今後似たようなケースがあった場合に
どう対応するのか?」という質問をもらった事も事実だ。今回は私がたまたま反対
運動をしていたからいきなり同封という事が出来たが、これが他の会員が進めてい
る反対運動だとしたらこのようにスムーズに流す事が出来たかどうか。     

また、いろいろな反対運動や自然保護活動が行われている事も事実で、川辺川ダム
反対だけ特別扱いするのはどうか?という意見も当然出てくると思う。そういう点
に私はどう答えるつもりなのか?                      

私としては会員が運動している事は出来るだけ他の会員に知らせて行きたいと考え
ている。反対運動を会としてバックアップする事も、署名などに協力する事も、会
員の勧めがあれば積極的にやりたいと考えている。では、それが出来ないケースと
はどんなケースなのか?自問自答が続くが、これにはまだ答えが出ていない。ケー
スバイケースとしか言えないのが残念だ。                  

例えば、林道建設反対運動があったとする。この林道が出来なければ仕事が出来な
い会員がいたとする。こういう場合どちらの事を考えるべきなのか・・・・?? 
すべての運動に同じ考え方があてはまる。どこで線を引くのか?誰が線を引くのか
?考えても考えても答えが見えない。                    

署名は順調に集まっている。本当に嬉しくありがたい。その反面本当にこれで良か
ったのかどうか・・・という思いが消えない。時としてこうして「我」を通す事が
これからも無いとは言えず、複雑な思いがしている。             

あとはまた明日から。